schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

今日も世界は平和で人々は幸福だった

不慮の事故や病気、生き方の違いと対立や喧嘩、


生命はその原則からの不幸は免れられないだろうけど、


しかし大それた騙しや謀略を図る者などいないので、


今日も世界は程々に平和で人々は幸福だった。

人間の不可解さ

知性の発達は、人間のエゴ、欲望、恐怖、残酷さを拡大させ 、


それを隠すのもまた巧妙な知性の働きだ。


人類の今の文明と文化が必然という事はなく


違う形はいくらでもあるだろう。


またピープルやわたしの精神性が必然ということもない。


人間の不可解さはこれに尽きている。


常識が常識というのもたまたまそうなのだ。

存在と最重要な認識についての根本的な疑問と答え

◉存在についての根本的な疑問と答え


存在への根本的な問いはたった一つしかない。それは宇宙はなぜあるのかという事である。それはたった一つの質量や物質がなぜあるのかという事に他ならない。これが存在論である。その時個々の存在は問題とはならない。なぜならそれらは存在に見えるが認識だからである。厳密に言えば、存在するように見えるものはすべて認識にすぎないのだが、しかし宇宙は、存在するものとして確かにあることはあると言えるのである。それもないと考えるのはもしそうであったとしても意味はない。なぜならそれは認識にすぎないからである。


◎なぜ宇宙はあるのか


宇宙はこのようにある


ー宇宙は在るか無いかであり、無いのではなく在りそしてこのように在るー


※なぜ宇宙があるのかとか、何かしら在るか無いかという疑問や判断は言葉上の認識にすぎずそういってみるだけなのだが、わたしの存在論としては「わたしの身体を含んだ宇宙はこのようにある」という事だけである。これは「宇宙はある」という言葉ではなく実際に在るということである。これは思考とは無関係であり直観なのだから考えないとき程はっきりする。そして顕微鏡や望遠鏡を覗いたからはっきりしてくるということがらではまったくない。同じことだが宇宙の果てまで行ってみたり宇宙のはじまりや終わりが分かったとしてどうなるものでもない。それはただ今現在の一つの宇宙が実際に存在することであり、一つで全体なのだからその存在する部分からの原因は無意味だろう。これが第一の原因である。或いは第0かもしれない。


◉最重要な認識についての根本的な疑問と答え


〇なぜ私はここにいるのか


たった一つの宇宙がありわたしの身体がその一部としてある。それには心があってその心がわたしと認識するからわたしがここにいることになる。


〇宇宙は唯物か唯心か(注1)


たった一つの存在は宇宙でありそれは質量のみなのだから唯物である。ただしこれは直接には認識することができないので、認識された宇宙は唯心でしかない。存在するのはだだ物質のみだが、人間にとっての宇宙はただ心のみである。よって物質が人間の価値観を規定することはあり得ない。


〇宇宙論は宇宙を解明できるのか


認識の奥にある質量の宇宙は存在で宇宙論は認識である。認識は五感、時間と空間、時間と空間の科学である直観数学、言葉と数字の論理、でありそれでできている宇宙論では宇宙は解明できないだろう。質量のふるまいは認識である次元と論理とは無関係なので観測によって変わった現象が限りなく出てくるだろう。宇宙論は科学なので観察されなければ実証されないが、その研究は理論からの実態の構築が主であり、一般の自然科学と違い実態が部分ではなく全体なので、何かとんでもない無駄なことをやっている可能性が高い。実証するのだからそれでよいのだと言えばそれまでだが。


〇なぜわたしは死ぬのか


生まれたから死ぬ。死なないなら生まれない。これは(注1)から物質と心の二面から見ることができるが存在ー物質ーが本来一つとすれば、自分が生まれて死ぬことは形式であって存在そのものは何の変化もない。ただ宇宙はー自分の身体はその一部であるー人間にとってこころの認識にしかすぎないのでそれから見てわたしは死ぬと認識される。


〇なぜ世界は変化していくのか


主観の認識の形式が世界を因果に見せている(注1)。世界は私の心であって、時間と空間は主観の形式であるから、因果も主観の形式である。存在には何の変化もない。よって宇宙には始りも終わりもない。こころがそう見せているだけである。存在にとっては認識は無意味である。


〇自我ー自他の区別ーは必然なのか


自我は必然である。それは生物が個体だからでありそのように作られているからである。生物は細胞からできており、細胞自体に自我がある。刺激に対する反応がそのようにできており、それは自分をまもるためであろう。動物の神経と脳ができたときに刺激に対する反応が本能となった。本能から様々な動物的な知性が生まれた。人間の場合はその本能から言葉が生まれたが、この人間の理性ー知性、とその記憶だけは、必然を元にした偶然であり、改善や変更が可能なのである。これが宗教であり、宗教と言う概念にこれ以外を持ち込むのは誤謬である。このことについては、私の宗教関係の事項に書いてあり、書いてあるのはこの事のみである。


〇欲望と感情は必然なのか


欲望と感情は自我からくるので必然である。自我の必然と同じ事である。ただ人間の欲望と感情は必然であり偶然である。この偶然をどうこうしようとするのが宗教である事は前述している。


〇なぜ私は苦悩するのか


自分がそれを作り出すようにできている。前述の自我の必然と偶然からきている。


〇幸福とは何か


「感性がそのまま」のときにと定義できるだろう。


これはありのままの感性ということだが豊かな感性と言ってもよい。


幸福とは何かの答えは普遍的な幸福でなければならないだろう。そうならばそれは何々の時にという条件がついてはならないだろう。ならばそれは感情ではない。喜怒哀楽や感動や満足は変化している。生まれては消えている。消滅滅し終わって残るのが感性なのである。


感性は存在の意味である。存在が存在するかぎりー世界が存在する限りーその意味はあるのだからそれは永遠である。


この幸福は人が生まれた時から死ぬまであるのだが、それを妨げるものがあって隠されている。子供時代の幸福が大人では忘れ去られている。隠しているものがなくなればそれが現れるのだから永遠の幸福であり、青い鳥は実は自分の家にいた。ただこれは単純で複雑、簡単で難しいことではあるのだろう。


〇生命はなぜ捕食しあうのかーその悲惨ー


生命が生きるためには生命を必要とする。これを(注1)物質(存在)と心(認識)からみてみる。これは自分の死はなぜあるのか?それは悲惨なのかというのと同じである。


物質からみると宇宙(存在)は一つなのだからそれからすれば一つの宇宙が宇宙を食べ合っていると言う事になる。これが存在としては真実であろう。


心の場合は、必然の自我これは動物的な自我のことであるがそれから見ても悲惨である。人間の場合その感情が悲惨さを拡大しているのだから、後天な偶然の自我が無いから強いまであってその悲惨さに強弱があることになる。


〇なぜ悪があるのか


公共を害するものが悪であるから、自我を主張するのが悪である。なので自我があるから悪があると言える。自我及び集団的自我を主張することが正しいときは正義である。その逆が不正義、その行為は不正つまりは悪である。善は愛ではなく共感なので感性からくると考えられる。愛はその行為なのだろう。
※よってある人への秘めた想いは共感や善で、それを表現できた時が愛なのかもしれない。


〇知識は人間を賢くするのか


一般的に小学校教育までは賢くするが中学教育以上は阿保にすると言えるだろう。知識は使いこなせて人を賢くし、使いこなせなければ阿保にする。高等動物は非常に賢いがまかり間違って思慮深くなったら阿保になるはずである。


〇世界は複雑なのか


世界は単純でひとつしかない。しかし自分の心が複雑でそれが世界を複雑に見せている。ただ人間の世界ー社会ーを動かしている政治、外交、報道、教育などの言明は単純で最大四種しかない。それは、表(ほんと)、裏(うそ)、裏の裏(嘘を隠す嘘)、まれに裏の裏の裏(いいわけ)、、のようなものである。


〇ホットケーキにナイフは必要なのか


自分で食器を洗わなくてもよければ必要で洗わなけばならない場合は不必要だろう。


〇男がHな方が女は嬉しいのか


嬉しくないと思う。星がでるまでは。


〇女にとって男の裸体と女の裸体はどちらが美しいのか


おそらく女の裸体の方だろう。そうでなければ化粧したりおしゃれする気にならないだろう。


◉これらの証明と反論について


個々には現実を見るのと、全体では前提からの繋がりがあり、帰結に確実な証明があるならば、それは一元論であり宇宙その実在は心であるとする、確実な観念論の前提からくる。これへの反論は、世界は自己と他者で成り立つという二元論の、確実な実在論哲学からきて、これらを否定し去る。


付記 こんなことを書いて何になるのか


これらは観念論として考えられたので非常識である。これらを否定することによって我々の常識がますます光輝くことになり、その役にたつとは言えるのだろう。そして精神と文明が命が死を迎えるように滅んでいく。


付録


ー存在とは何かについてー


なぜ存在するかとどのように存在するかは、原因と形態であり存在的と言われる。これは認識論であって、なんだか分からないがただ在ることは在るのが存在論だというのが、わたしのー宇宙はなぜあるのかーという上述であった。これは存在は、直接には認識できないXだからである。これが原因の頂点もしくは裏にある。


これに対して存在とは何かは存在論的と言われている。


存在とは何かも存在論ではなく認識論である。これは存在の性質、本質、意味、価値などと言われるものである。存在の意味や価値で、存在の本質が定義されても無意味なのは、無価値だからだろう。存在の意味は、概念ではなく感性からくると考えられ、それは存在の意味は今現在実際に存在しているもの、そのものの意味だからである。例えば食事の意味は味、夕日の意味はその印象、口づけの意味はその感触、裸体での抱擁の意味は肌触り等であり、そしてわたしの存在の意味は宇宙の存在の意味のように感じられる。


感性には快と不快があるが、それを選ぶ自由度は大きい。感性に対して感情があるが、これは存在についての意味ではないだろう。例えば恋愛の意味が切なさであるときに恋愛は存在ではない。これは感情は存在ではなく概念的な認識だからなのである。感性では存在が心なのだから、宇宙とわたしは一致しており、感情では自分と他者は対立している。


※津軽海峡冬景色のときにー或いは仮想で粋大蔵の津軽平野雪景色とか又久留造の津軽雪おんなでー女に何があったのかは分からないので感情を除くと、その中での各存在の意味は寒さ冷たさ、景色の美しさ、風の音や霧笛や話し声、何らかの匂いであり、それと記憶の直観的な夢のような思い出でであっただろう。


※認識には直観的な認識と概念的な認識の二種類がある。宇宙は直観的認識と同じであり、存在の意味が感性というのは、事象の本質は言葉でなく感性で捉えられるだろうという事である。


※ここで使われる存在という言葉は、一般的な意味の存在である。


※存在することを存在論的に証明することはできない。これは存在することの存在論的証明と言い、思考で陥りやすい誤謬である。我考えるゆえに存在するは存在論的証明である。聖書から神の存在を証明することはできず、また文章が存在を規定することをドグマ的と言いユダヤ思想からくるものである。神道や仏教がドグマ的でないのは文章で存在を規定していないからで感性的だからである。


ーすべての終わりー

カントについて その2

◎雑なカント哲学の概略


●アプリオリな直観とアプリオリな概念から確かな真、善、美の哲学ー当然形而上学ーを体系しようとしたのがカント哲学である。


●独断でない形而上学はアプリオリな概念で構築されなければならないとすることがその基本構想としてある。


●アプリオリな直観と概念は経験が混じってないのでそれぞれ純粋な直観、純粋な概念という。


●善の理性を実践理性批判、美の理性を判断力批判で論じている。


◎雑な純粋理性批判とは何か


●純粋理性批判は、アプリオリな概念の理性ーカントによると高い理念の概念が理性概念でそれ以外が悟性概念ーについての、その限界を論じるという意味である。


●アプリオリである純粋直観、その経験ではない内的な直感が時間と空間である。それは純粋数学の命題の真の根拠である。そこからアプリオリな総合命題の研究が始まった。


●純粋概念とアプリオリな総合命題で純粋理性を論じてみたが、二律背反になってしまった。


◎雑なカント哲学への覚書


●唯物論に対して唯心論、実在論に対して観念論という言葉がある。カントの頃は唯心論と観念論の区別がついていなかった。たぶん唯物論VS唯心論というのが古くからあった。本当に存在しているのは物か心かあるいはどちらが重要かという事なのだろうが、カントあたりから宇宙を物質から認識するのが実在論、心から認識するのが観念論と言うようになったのではないかと思う。


●カントは感性によって受け取った直観が概念である悟性認識によって意味がでてくると考えているようで、感性をセンサーのようなものとしか考えていないようである。概念を高く評価している。<概念の把握は天才的なのだが直観と概念の区別がはっきりしないところがある、勿論新しい考えなので混乱はあっただろう>ところが動物を考えてみればこれが間違いであることがわかる。悟性概念がない動物であってもそれなりの知性があって記憶し判断しコミュニケーションしている。ショーペンハウアーは悟性を動物の知性ー言葉以外の知性ーとして論じている。わたしは感性が人間の霊性、神性、仏性とさえ考えている。


●時間と空間が内的直感というのは時間と空間は認識ということである。ところが自然科学では時間と空間は何かしら実在していると考えるのが普通である。ところで相対性理論ができてから時間や空間が伸びたり縮んだりするということになった。これは内的直感からはどう説明できるだろうか?論理実証主義の数学の論理主義は、おおむねこれへの反対の議論を展開していると考えることができる。数学の命題は総合命題ではなくすべて分析命題であるとか、総合命題と分析命題は実は区別がつかないとかいうアンチテーゼである。詳しいことは分からない。


●時間と空間が内的直感であれば、宇宙がどこまで数学で研究できるかが問題となるだろう。なぜならそうであれば宇宙ー質量や物質ーは数学では規定されていないからである。これは世界ー事象ーが言葉では規定されていないのと似ている。


●純粋な概念やアプリオリな総合命題は、人間を作った宇宙とその人間の知性に何らかの関係があることを現わしているのかもしれない。

カントについて その1

2024年はカント生誕300年の年でそれを考えるとかなり古い人のように思える。その頃はまだニュートンが生きていた。死んだのが1804年でそう聞くと220年前まで生きていたという事でさほど昔でもない気がする。明治元年が1868年である。


カントは自称で天界のコペルニクス転回を認識にさせたと言われ、それは経験の認識ーこれは科学が想定されているーを成り立たせるのにあらかじめ主観のほうに何かしら経験前の認識がある事を証明したからである。


経験の認識がアポステリオリな認識で経験前の認識がアプリオリな認識である。


カントがアプリオリな認識に注目したのは、確かな形而上学を作るのには確かなアプリオリな認識からでなければならないと考えたからである。それは形而上学がそもそも経験に立脚してないので当然であるが、それはまたカントが概念の人であり演繹の人だったからでもある。


カントは人間の概念使用については天才であり、言わば知識について、平凡な哲学者が直線的な思考をし、優秀な哲学者が平面的な思考をするのに比して、立体的な思考をするのである。


それでもってアプリオリな概念の発見のための演繹ー純粋悟性概念の演繹ーをしたのは、カント自身が言っているが「退屈で困難なことだがやらねばならない」と考えたからである。それがカント哲学が難しいと言われる所である。


わたしはこの演繹が正しいか間違っているかは分からないが必要ではなかっただろうと考えている。そしてアプリオリな概念の演繹以外はさほど難しいことを言っている訳ではない。


カントが何を言っているかというのは問題ではない。なぜなら間違いが多いと思われるからである。これはカントが始めた独創が根源的で深いので当然と言えば当然なのだが、だいたい哲学説の大部分は間違いなのである。


その哲学的思考を学ぶために読むべきである。これを自身が、哲学を学ぶことは哲学することを学ぶのだと言ったのである。


カント哲学は総合的には正しく、分析的には間違いが多いと思う。


正しいのは勿論アポステリオリな認識とアプリオリな認識の区別、そしてアプリオリな直観として先験的感性論。それからの時間と空間はアプリオリな直観であるという事と、それから考えられる物質自体は認識できないということ、それと命題のアプリオリな総合判断の研究である。


その他の結論は間違いだろうと思う。しかし学問や哲学は上位の総合が重要なのでー現実に責任重大でなければー個々の結論はどうでもよいのであろう。