schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

分類の直観と概念について

分類は知性において本質的なことなのではないかと思う。


分類というのは違うか同じかの判断である。


何についての違うか同じかの判断かと言えば、


実在するもの(実物、直観)と概念の二種類である。


生物や物質の分類や概念そのものとである。


生物や物質であっても概念がそれをするのであることは明らかで、


その知性と宇宙とがなぜ一致するのかはちょっと分からないが、


知性の原理としての分類はまず、


直観(実在)としての実物と概念としての言葉が、


同じか違うかの判断としてあると私は考える。


話をするときに前提として、


火星という実物と火星という言葉が、


同じという認識がされている。



付録1)前々から考えている分類と論理の関係について不完全ではあるが、忘れないために書いておく。論理が概念の分類で説明できるかもしれない。論理が基本的にA=BであるならここにAとBが同じか違うかという判断である分類があるだろう。


付録2)わたしの分類の考えはー以下はわたしの独自の考えであろうがー同質性の原理と異質性の原理を両方満たすことが帰納法での真理の証明法なのだが、これが分類と同一ということなのである。


付録3)同質性の原理というのは存在者の性質の同じに着目、異質性の原理というのは存在者の性質の違いに着目することであり、最初に明確に意識したのはカントである。異質性の原理を多用するのが科学であり(分析)、哲学は同質性の原理が問題となるのである(総合)


付録4)ショーペンハウアーの「根拠律の四つの根について」の証明法がこれであり、学問の根拠に四種類(物質現象の原因、直観数学の原因根拠、論理的根拠、意志の原因である動機、動因)あり、その根(対象)に四種類(物質現象、時間と空間、人間の知性概念、動物の意志)あり、おそらくこれだけであろうことを証明している。


付録5)自然科学の質量の素粒子の世界で専門的なことは分からないが、様々な素粒子が発見されるが、この素粒子は別の素粒子の複合でできているのではないかと考えるのもここからきている。そうやって素粒子の数を減らしていくことが真理の追究なのだが、物質の最小単位である原子の時もこういうことがあった。原子が何か別なもっと小さなものの組み合わせではないかと考えたのだが、低温の世界では原子核の周りを回る電子の数の違いが元素であることが分かり、その数が安定しているのが90いくつであると分かり元素表が確定した。これは物質が質量の特殊な状態であるということで稀な例なのかもしれない。


付録6)元素に類似の周期があり、そこから原子の電子の状態が説明されて、分子がなぜ作られるか分かり、周期律表が完成しここに近代化学が始まった。元素は生命の基礎であると同時に生命と同じ位の神秘である。ここまで分かってもなぜこうなっているのかは分からず、これが素粒子で説明できたとしてもーおそらくできないだろうー素粒子がなぜそうなのかは説明できないのでありつまり不可知である。不可知であるがゆえに神秘だろうし、それは物自体が不可知であることと同じと考えられる。物自体が不可知なので生命も不可知である。それに比べれば精神(自我、概念、意志、記憶、感情、アプリオリな概念、論理)や世界の観念性(主観、感性と美、アプリオリな直観)はかなり単純で百年位で九割解明可能かもしれない。それには精神の周期律表とニュートン力学のようなものが必要だと思う。原因論、純粋数学はユークリッド原論、自然科学はニュートン力学と周期律表だが、精神は数字では記述できないので言葉のみだろうが。


w1)物自体=宇宙が因果で動いている訳はないのでー人間の認識でそう見えているだけなのでー因果が無ければ時間も無く、時間が無ければ宇宙に始まりと終わりがあるはずもない。時間が無いので宇宙の寿命が500億年であろうが一日であろうが(宇宙にとっては)意味はない。空間が500億光年か1光日なのかというのも意味がない。仮にこの500億年という一時の中では、宇宙が素粒子やその法則で動いているとしよう。そもそも宇宙がこれからも現在の素粒子やその法則で動いていく保証はどこにもない。物自体は完全に全能であって様々な素粒子やその法則を自由に創り出して活動している。全能ならばなぜそんな回りくどいことをするのだというのは人間の方の愚問である。そして生命も自分の体も同じことである。ただ観念である主観や精神は不可知ではないので簡単に明らめることができる。
〇宇宙=質量が、時間と空間の中で因果として現象しているのではなく、宇宙=質量が、人によって、五感、時間と空間、因果、論理として認識されているだけと考えられる。この時、宇宙のうごめきが人の因果律によって、時間と空間が人の純粋直観数学によって、論理が人の論理や論理数学によって、五感とその実在感と共に認識されていて、宇宙自体は自分の体も含め、人の認識とは似てはいるがほとんど別なものであると考えられる。


w2)時間と空間にも因果にも数学にも規定されていない物自体の宇宙はただうごめいている。それが生物を作り人間を作り主観を作り感覚を作り精神を作ったのは宇宙はただ自分を意識して見たかったのだろう。存在する物は意識されなければ存在しないに等しい。それは主観の直観である美や妙や玄や崇高などの感性によってだろう。そのためには付属物として知性も作らざるをえなかった。知性がなければ感性が明確に意識されることはない。これもまた意識されなければ存在しないに等しい。


付録7)例えば「世界とは何か」に或いは「人間とは何か」に一つの答えがあるしよう。この答えが見つかれば哲学の大問題が解決されたことになるが、さらに「世界と人間が同一」ということになってこれが解決されればさらに哲学の上位の問題が解決されることになる。これは宗教、芸術、学問のうち学問の話なので念のため。


△付録1について


主語についての述語の論理は、総合命題か分析命題のどちらかであり、基本的にA=Bですべてが説明できると思う。A=Bというのは「AはBである」ということで、総合命題はまさしくA=Bであり、主に経験的な知識や真理が加わる。他にアプリオリな総合命題がある。分析命題は、BがAの場合のA=Aのことで、論理的な真理のみである。


A=BやA=Aには、その命題についての真か偽かの判断が必ずある。これはAはBと或いはAはAと、同じか違うかという判断である。A=Bは主に新しい知識が加わる事だが、A=Aには何の意味があるのだろうか?私見では知識を整理するのだと思う。例
㋑惑星は(A)恒星の周りを回っているもの(A)である。同一律
㋺衛星は(A)惑星を回らないもの(-A)でない。A-A=0矛盾律


A=Aは同一律だが、矛盾律や排中律も基本A=Aなので、概念の分類上、同一と相違が問題になる。同一でない普通の分析命題や三段論法は、AがBを含むもしくはBがAを含むので、分類上、類と種の関係ができてくる。一方総合命題の例で、
「武漢近平ウイルスは(A)人工ウイルスである(B)」の場合は、分類上この命題の概念と、根拠として、実在している表象とが同じか違うかの判断として観察されなければならない。分類と論理にこんな関係があるだろう。


分類というのは違うか同じかの判断であり、違う場合は類と種の関係ができてこれが普通の分類学で、実在するものが概念的に分類されることになる。分析命題の場合は、概念の分類A=Aが同じか違うかという判断で、総合命題の場合は、概念と実在する感性的直感の表象A=Bが、同じか違うかという判断が問題になっているだろう。


実在するものの感性的直観と、その言葉が同じか違うかという判断とは、例えば「私という存在者=私の名前」か?という事である。存在者とその名称が同一か相違するかということである。ただ存在する物とその名称が同じということは、単に名称が間違っていないということであり、存在するものやことと概念が同じということではない。
〇この不明瞭さは思考についてまわっていて、言葉と存在する物がいつのまにか区別がつかなくなっていておきる。言葉には存在する物の名詞と、意味とがあるので存在と意味が区別がつかなくなってしまうのである。存在することを存在の意味で説明してしまうことは、存在論的証明と言い哲学上は誤謬であるが非常に多い。存在(直観)と存在の意味(精神、概念)は明確に区別、分類されていなければならない。


◎非常に複雑な例として「自分という存在者と自我」がある。
「自分という存在者は自我である」という命題は真であるか偽であるか?
又は、自分という存在者と自我は、分類上同じか違うか?
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以上は分類と論理の関係ついてちょっと考えてみたのだが、少なくとも無関係ではないだろう。