schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

悟った後で

悟りというのは般若と同じで広い意味を持つ。


分かったというか気づいただけで悟ったともいうし、それだけで般若の智慧ともいう。


しかし究極の意味は完全に悟った事、完全に悟った事の智慧を般若の智慧と言うのだろう。


大智度論などには、般若の智慧には、その無分別智に加えて悟った人の分別智も含まれると書いてある。仏陀その人間の全体の智慧を般若の智慧と言う訳である。


鈴木大拙の「禅の思想」には禅の立場からここいらの話が分かりやすく書いてある。即ち悟り本体の無分別智、無分別智における分別智が無分別の分別、それに加えて、悟りの行為が無作の作である。無意志の意志と言ってもいいだろう。


これらは本来インド仏教にすべて説かれている事であるーただ中国では行為を重んじたー。


ここでこの無分別智は直観智であろうし、分別智は概念智-知性であろうし、今回は触れないが、無作の作は仏教の実践-行為であろう。触れないのは、ここの主題は直観と概念だからであり、宗教ではないからである。


西洋哲学というかギリシャ哲学の母体を作ったのはソクラテス、プラトン、アリストテレスであろう。あくまで私見なのだがソクラテスは人生論、プラトンは観念論的哲学、アリストテレスは実在論的哲学のそれだと思う。その後の西洋哲学にもこの三つの系譜があるはずである。そして私見では人生論は哲学だとは私は考えないー区別すべきである。そして仏陀とイエスは完全に宗教家である。


ここで人生論を除く西洋哲学に、仏教哲学を含めー仏教哲学は涅槃を科学的根拠とした観念論であるがー、漠然と思い浮かべながら


涅槃において根本智、無分別智、直観智が分別智、概念智、言葉を含むときに、それは無分別の分別なのであるから、思考が直感的に行われる訳である。


ーただ無意志の意志もそうであるが、無分別の分別も常に自己はありのままに意識されていいて(無意識が意識されているなどともいうらしいが)行為や思考は自己が自覚されつつ直感的に行われている訳である。



この知性によって哲学がされたときにこれが、このブログの「知性とその創造性について」と「想像力と創造力について」に関連している。



〇ドローンな話 ※


◉哲学の第一の命題
㋑哲学=世界についての正しい記述に、帰納として分類(階層)が働く場合に
㋺悟りそのものー自他不二、物心一如等の直観についての記述を「哲学の第一命題」とする
これは例えば
◉宇宙は自己である ーただ「宇宙」だけでもよいー
ということにできる
㋩その時観念論哲学体系は、仏教哲学を含み第一命題の下位の第二命題群とできるだろうし
㋥その下位の第三命題群として科学や実在論哲学を置くことができるだろう


◎その時その精神の原因論としての何故!
◉何故!人に迷いと悟りがあるのか?
が「哲学の究極の謎」それは「哲学の第一命題へ謎」であり「宇宙=人間の謎」だが、と言えるだろうと私は思う。


※ 飛んでいる