ーまえがきー
わたしは精神の因果について考えてきた。
別に重要ではないがこれは、ショーペンハウアーの根拠律の四つの根、つまり四つの根拠についての、その現象や事象の四種類からきている。
それは物質現象、時間と空間、知性、生命における意志だが、その根拠が順に因果律の原因、直観数学の公理系の本質、知性の論理的根拠、生きようとする意志の動因である。
そのショーペンハウアーの意志の根拠を考えるというのが、そもそもの精神の因果の始まりだが、これは哲学的としての思考ではなく、ショーペンハウアーが意志の否定を宗教的の直接な救いや解脱の原因としたもの、その実際の実践的なものの考察である。
因果と言うのは西洋哲学にも仏教哲学にもあるが、この精神の因果という概念は、西洋哲学的な概念である。
であるから仏教哲学の概念からすると、とんでもないとか間違ってるということになるので気を付けたい。
仏教の因果はあくまで人間存在と世界との総合的な因果を見るのであり、因果そのものだけを抽出しないのだから、これで仏教哲学を理解することはできない。
なのでこれは、仏教哲学の総合的な宇宙の因果から、人間の精神的な因果を取り出して考えているということになる。
しかしながら、釈尊の四諦は明らかに精神の因果を問題にしたものである。
●実はこれ以外はどうすることもできないそれゆえに素晴らしい事に宇宙はうまく動いてる
つまり四諦の苦は人生のあらゆる苦しみは物質現象でもあり精神現象でもあるが、集も滅も道も精神現象のみの問題だからである。
これがなぜ特別なのかと言えば、それが宗教のたった一つの問題であると同時に、その特徴もたった一つの問題だからである。
それは精神の因果が人間の精神を作ったこと、そしてそれが滅さられるつまり改善されることだからである。
そして何が精神を改善させるのかと言うのがこのテーマである。※
※改善と言えば、社会の快適さやその維持や変革というのがあり、これが政治他だが、社会生活の改善されたとして悩みは残り、医療が発達しても人間は死ぬのだから、重要な事ではあるが別の問題としてある事だろう。
ーまえがきⅡー
精神の因果というのが何かとか、それがあり得るかとか意味があるかとかそんなことはどうでもよいかとかを考えてみよう。
精神とは物質に対する概念であるが、物質を因果が規定しているのは常識的に自明である。
では精神を因果が規定しているかというのがこの問題である。
コンピュータの場合もハードとして因果が電子工学として働いていてその結果が現れるのだから人間の場合も同じだと考えられる。
両者の類似と相違から人間のこころを考えることもできるだろう。例えば両者の記憶の違い等である。
ただ人間の場合はこのテーマが何の意味があるのだろうか?その関係はこれまでの人類の文化においては問題にならなかったと言えるだろう。
精神とは知性や感情やあるいは動機や動因の発露だが、これらは記憶を解して行われており、その記憶の複雑さが人間の特徴である。
ただ感性は記憶とは関係ないと考えられる。記憶が感性として現れるということはあるが。思い出が快の時は感性であり不快の時は感情と言えるだろう。
精神の因果で考えられるのは、因果なのだから変化である。この変化がコンピュータと人間の対比では重要であろう。コンピュータの記憶は変化しないと言えるだろう。
人間の記憶が変化するのは、総合的な記憶だからである。経験された記憶には、言葉、感情、感性があるだけでなく、想像とか創り出されたされたものなども蓄えられるているので、何か複雑な機構で盛んに創造されていて意識はされないと考えるべきだろう。
精神の因果の因果は精神現象ではない。それがあるとすれば、その下位にある物理現象としてあるだろう。精神現象が物理現象とくっついてない訳がないのだから、精神の因果とはその接点の物理現象をいうと考えられる。ひょっとしたらその中間というのも考えられないわけではないが。
なのでそれは阿頼耶識とかいうものではない。その下位にあることだろう。そしてそれは精神の方からは操作できないと考えるべきであろうと思う。
精神の因果の変化というの直接は知覚されない。知覚されるならばそれは精神の変化でいいだろう。なので精神が変化することを因果と言うのではない。その因果によって精神が変化することであって、おそらくは元に戻ってその流れに乗るということなのだろう。
ーほんぶんー
前書きが二つもあると本文がかすむことになる。しかし真理は目立たないものであり、むしろ隠されているものだから、前書き1を読んだ人も前書き2は読まずさらには本文を読む人は全くいず目的は達成されることだろう。
精神が精神の因果に働きかけるのは非思量のみである。精神の因果が正常に働くから精神が変化するのである。これが悟りの立ち上がりと深まりと成就となる。そのそれぞれが精神の変化である。
精神の努力が精神を変化させることはできず、肉体の努力が精神を変化させることもできず、精神の努力が精神の因果を変化させることもできない。
なのでそれらの努力はまったく無駄である。悟りへの努力というのは無駄なのである。なぜなら悟りは蓄積することではなく減らすことだからである。しかも減らす努力も無駄である。
それが非思量である。
非思量とは自分の精神現象がそのまま流れていて手が加えられてないという事だが、これは特に自分の思考がと言っても差し使えないだろう。
これは止観としてみれば手が加えられていないというのが止ーサマターであり、その思考が眺められているというのが観ービッパサナーである。
しかしながらその本質は止観ではなくその状態が続いている事であって、それを非思量というのである。なので非思量は止観ではない。その発展形である。
このブログはの目的は宗教ではなく学問的なので、なぜそれが悟りを立ち上げ深め成就させるかについてがテーマなので....
つづく