schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

文化の起源のようなもの

唯識

ホモ・サピエンスは突然生まれ出てきて増殖したのだろうが、それまでの人類の精神的な遺産は受け継いでいることだろう。


そしてそれまでの人類よりも知性において優れていた。感性においては同じだったように思える。<高等動物は固有名詞を理解できる。それまでの人類には犬などの普遍名詞や単純な抽象概念があった。新人は抽象概念が明確に理解できるようになった。詳しいことは分からないがこんなことだろう>


種として同じなのだから現代人と能力はまったく変わらないのだろうし、文字以前に言葉が人間の文化を造ったのだから、人間の高度な文化というのは何万年も前からあるはずである。<五万年後の人類の能力も今と同じはずであるし、形となったものだけが文化とは言えないだろう>


そこには忘れ去られているが、今いるような様々な才能を持った人や天才もいたはずなのだ。


自然宗教は風土の地域性があっても、世界を感性的に見てその驚きを知性を加味して合理的に説明し、人々を納得させ安心させて何千年、何万年と続けさせた確かなものにわたしは思える。確実なものでなければ長く続かない。自分たちの生活を中心にして世界を芸術と見てこれが実であるが、意識として初期の知性で説明したものと考える。例えるとあらゆる動物は実に確かに生きているが(確かでなければすぐ死んでしまうので)人間はその文化として自然宗教によって確かに生きたのである。


人間の文化というものが時間と共に発展してきたということは確かにあるが、それが現代人が考えるようなものではないだろうとわたしは想う。


西洋文明と言ったらいいのか西洋文明へ至る文化と言ったらいいのかは、詳しく調べたわけではないが、表面的なものばかりでなく奥深い人間の知恵や世間知が色々あるはずと常々思っている。


でもこれは結局東洋に劣っているだろうと思う。宗教のことである。


わたしの宗教の定義は1)自分という人間存在を洞察する知恵、と、2)自分と言う人間の精神の改善、なのだが、<2)は精神の因果なので2)という結果の原因が1)である>


文化には宗教以外に芸術と学問があると思う。文化が感性と知性による精神的なものであるなら、分類上、文化の下位の最上位概念はこれ以外にはないように思える。<生命現象とか物質現象とか社会現象もこれで説明はできる>


芸術と言うのは芸術作品の創作ではなく個人個人の美の鑑賞能力が基本であると考えている。それによって世界(宇宙)を直観的に正しく認識するのである。最も重要な世界(宇宙)が自分の体である。


学問とは世界の知的認識とその真理の証明でありそれによって世界を正しく意識して精神を安心させるのである。


芸術は各人種、各民族に、優劣はないが、黄色人種は宗教に、白人は知性と学問に秀でていた。


自分たちの宗教を学問として解釈した仏教哲学やインド哲学を作ったのは白人の知性なのだが、インドの宗教自体は黄色人種であるトラヴィダ人のものであるし、ただ知性によって意識されたことで永続したといえるのだろう。


古代中国の場合も学問性はなかったが、その宗教性はインド並みのものがあったと考えられる。ただ社会的な発展性が少なく単発的に終わったのである。だいぶ後に仏教が入ってきてそれを発展させた。


宗教というのは基本的に個人の霊性であるし、自然宗教は感性的である。霊性と感性は似ていて完全な感性が霊性と言える。知性(や学問的)とは自我が概念でできているので(感情は概念の集合の全体作用である)分別による自我の追及に他ならないが感性や霊性とは自己と宇宙の調和である。


記録には残っていないが、その何万年かの自然宗教の時代に、白人は知性の天才が黄色人は宗教的な天才がぽつぽつと出現していただろうと思うのである。


(一神教はユダヤ民族の特異な状況から来た人為的な思想から導かれた霊性で、つまり教理、教条は間違いであるが宗教的実用性があり、それは一つ(一人)という事と救いは自我からこないというところにある。これは自分の内に現実に一人の絶対なものがあるというその実用性なので、神が一人自分の外にいて云々という思想展開は科学的に嘘である。自然宗教はその始まりが人間と世界の現実の解釈からきているが一神教は創作とわたしは思っている)


(以上から人類が進歩しているのは特に科学による知性の進歩なのであって、人類が芸術的、宗教的に進歩しているとは言えない。また知性の進歩は、芸術、宗教の進歩を阻害することがあるのだから、人間が良くなっているのか悪くなっているのか、幸福や不幸が増えているのか減っているのかは一概にはいえないだろう)