schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

試しに悟りをニユーロンのつながりで説明してみる

客観的な真理が無味乾燥なのは、それが自分の実在と無関係だからである。


それが技術に生まれ変わって自分を助けることが、根本的な幸せにならないことは、現在の世界が証明している。


でも客観的な真理が、主観的な技術について気づかせてくれるということはあり得る。


主観的な技術とは坐禅である。


ニューロンのつながりとでも呼べるものが、電子の働きというのは外から見たのであるから、精神的な実在としては何かもっと別な自分の中の働きだろうし、これを唯識的に種子としてみる。


記憶は阿頼耶識の中の種子の何等かの繋がりとか組み合わせでできている。(世界も種子でできているのかもしれない)


その中には生物としての記憶、人類としての記憶、先祖の記憶、自分の過去の記憶が、末那識として残っており、意識に現れてくる。それは五識の記憶、意識の記憶の言葉などである。


種子のその組み合わせやつながりは無限個であるが、記憶というのは限定されているもので、限定されているがゆえにそれはカルマである。物質の記憶(進化)が輪廻かもしれない。


坐禅というのはこの記憶を元に戻すのである。というのは、限定されたその繋がりが、全体の繋がりに戻るのである。その全体が世界と言っても良い。なぜかは知らないが人間にはその能力がある。元に戻っても記憶は残るが、平らかにされた全体の中に残る。


平らかにされた全体というのが涅槃であって、あえて個人の考えを言ってしまえば、悟りというのは、その涅槃を残った記憶が意識するのである。涅槃は意識されなければならない。死ぬまで。


この意識が直観的真理であり、その意思が直観的意志であるかもしれない。