schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

存在の言葉

存在の言葉とは意味としての言葉に対する概念である。


言葉は人間の精神が動物的なのものまで含めて


高く大きな山とすればその頂上に実際に存在している。


意味の探究は哲学の重要な課題とはいえない。


なぜならば存在は直観で、意味は精神であり


意味は存在の反対であり、精神の妄想だからである。


存在の意味は哲学の存在論とはなり得ないのである。


(これは西洋哲学の誤謬のカルマであり神の存在論的証明に端を発するものである)


国が無ければ具体的な個人はなく、保守がなければ革新(リベラル)はない。


革新の独歩は左翼→反国家となってすべてを破壊してしまおうとする盲目の意志であるが


存在の言葉がなければ具体的な哲学は存在せず抽象の根無し草なのは政治と同じである。