schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

主観と宗教的知恵は同一概念である

主観は存在の三つの族概念の一つであり最も重要である。族概念とは存在するものの最上位概念のことで、主観、直観、精神である。主観は存在する無である。


観念論の哲学と科学では実在が観念なので存在しない存在者の概念がない。


主観はキリスト教の、神、聖霊、キリストが内なる神である場合のみ同一概念である。主、聖霊、キリストは自分の外にあると思ったから分かれている。キリスト教は実在論であるが「三位は一体である」という思想、ここにキリスト教の中のギリシャ哲学の哲学的真実味、観念性がある。


観念論は主観的であり総合的、実在論は客観的で分析的である。それぞれに真理があり、それが直観的真理(主観的真理)であり、客観的真理である。


宗教的知恵は人間のあらゆる可能性を秘めた力である。


世界は外的直観であり、自分の体は直接の外的直観であり、時間と空間は内的直観である。これらは主観の直観であり表象である。


また精神というものが独立して存在し、精神的苦悩というのは、直観と精神の対立から
生じ精神という因果的結果の存在である精神自体の中に存在する。


精神の苦は消滅させることができる。悟りの初期では他人の苦しみが自分の苦しみとなるがそれも消滅する。他人の苦しみは感情としてではなく、純粋的な知性となって認識されるからである。


正常とはそれが維持できているというだけのことであり、異常とは正常が維持できないというだけのことであり、精神的苦悩自体が病気なのである。


また精神的苦しみのほかに直観の苦しみがありつまりこれは肉体の苦しみのことだが、これは無くすことはできないが精神の苦悩がないとかなり軽減する。


主観はこの直観と精神を統一する力であり、治癒の原因であり、あらゆる創造力の力でもある。忘れるというのも治癒である。


創造力は人間の潜在意識から生ずるという人がいるが、これは間違いで、人間の精神に何の力もあろうはずがなく、これは主観と取り違えているのである。