ショーペンハウアーの哲学において「直接の客観」とは自分の体のことである。
「すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である」から主観は無である。
無が主観として存在しているのである。
主観以外は客観なのだから、直接でない客観は世界であり、直接の客観が自分の体ということである。
わたしは思うのだが、直接の客観の中に入っていると思われる自分の精神も客観なのではないだろうか?
ショーペンハウアーの哲学において「直接の客観」とは自分の体のことである。
「すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である」から主観は無である。
無が主観として存在しているのである。
主観以外は客観なのだから、直接でない客観は世界であり、直接の客観が自分の体ということである。
わたしは思うのだが、直接の客観の中に入っていると思われる自分の精神も客観なのではないだろうか?
唯識は「世界はわたしの識である」が基本となる命題。意志と表象としての世界は、「世界はわたしの表象である」と「世界はわたしの意志である」だ。
世界の意志の方は、カント哲学で認識できないとされる物自体の話なので、まったくの形而上学であり、本当かどうか疑問のあるところだ。ただ輪廻あるいはカルマを世界意志と捉えることができた場合、それは正しいだろう。
だから涅槃を世界意志の否定としたのである。
わたしは「世界はわたしの表象である」はまったく正しいと思っているが、これと唯識はほとんど同じことを言っている。
明治時代、宗教学者の姉崎正治はこの主著を「意志と現識の世界」として訳している。
「意志と表象としての世界」の最後の版で、ショーペンハウアーは大乗の般若波羅蜜に言及している。当時のヨーロッパではまだ大乗仏教が一般的でなかったのだから、仏教を熱心に研究していたことがわかる。
悟りといっても現実にはレベルがあって、完全な悟りは自我が消滅して感情がなくなり知性が純粋的になった状態であるが、そんな釈尊や唯識論や大乗経典を作った人々のようなものがなかったことは、彼の自我へのこだわりからわかる。
ただ宗教的な知恵は大いにあったと言えるだろう。そうでなければあんな作品は作れない。当時の西洋人であるから自我の消滅というのは、はるかな彼岸にあったのだろう。それは作品の中の涅槃への言及から分かる。
彼が坐禅を知らなかったことは、本当にもったいなかったと思う。
人間の理解においては、西洋哲学よりも仏教哲学のほうがはるかに深い。
ただ科学が生まれたように、西洋哲学は緻密である。
これは仏教哲学が観念論的であるのに対して、西洋哲学は実在論的であるからだ。
世界の(実在が)観念的であった場合、世界の探求自体が人間の探求となる。
仏教哲学を西洋哲学で解釈しようとする人は多い。これは悟りを西洋哲学で理解するということだが、そんなことをして何になるのだろう?仏教哲学がすでにあるのに。
わたしの関心は、西洋哲学を仏教哲学で理解し解釈することである。これは、西洋哲学や科学を悟りで理解するということだ。
そこで、カントを経て打ち立てられた近代的な観念論的哲学の哲学体系であるショーペンハウアーの哲学と最終的な仏教哲学である唯識に着目する。
意志と表象としての世界の第一節で、「世界はわたしの表象である」の説明があったあと
第2節はこう始まる。
すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である。
この主観の定義がショーペンハウアー哲学の最初の洞察である。