schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

ブッダの行方 番外編 禅の教授法について

全部分かるまで待っていると死んでしまうので、わかる範囲で書きこ。


禅を学ぶ時もやはり人から教えてもらうというのと自分で勉強するというのがあるだろう。


学ぶというのは、⑴知識を学ぶ、というのと、⑵手職や技能や行為を学ぶ、というのとがあると思うが、禅は⑶智慧を学ぶ、と言えると思う。⑶は⑴や⑵で現れる。


智慧なのだから本来誰にも備わっているものであり、それが⑴や⑵と違うところなのだが、⑵と⑶を同時に学んだ或は⑵を通して⑶を学んだのが、もう過去の話しだが日本の「道」の文化だったと思う。


ところで智慧を学ぶのは自分の智慧なのだから人から教えてもらう事は根本的にはできないと言われている。


技能も智慧も自得しなければならないのだから、結局他人に教えてもらう事はできないが、この教え方にも下手な人と上手い人がいるはずだろう。


禅の教授の資格を持つ人を師家というが、師家になれるのは禅の師匠である師家に許可ー印可された者だけである。


なので、完全に悟った⑶というだけでは師家にはなれず、その教授法⑵>⑴が上手でなければ印可されない訳である。


有能な師家の元では完全に悟った人物も多く出るはずだが、その師家の力量は有能な師家を作り出すことと言われている。


これはどんなに多くても一生において数人であり、その基準は自分と同じレベルでは駄目で、自分以上でなければならないとされている。


それがどこまで現実に実践されているのかは分からないが、その師家の有能さは、自分を超える力量を持つ人物を作り出す事と古来言われている。自分の後釜が自分以下では後釜とはならないからだろうと思う。


⁅変態注意⁆この智慧は、主観として無であり、自我の世界では直感であり、宇宙としては感性だろう。動物の世界には言葉がないので、又言葉が人間を阿保にしている面があるので、悟りの世界では、動物が自分自身をどのように意識しているかが理解できるかもしれない。
($)最近DNAの研究で寿命が100~120年を超えた当たりから配列が一気に変化することが分かってきた。これは最初は個体の崩壊や寿命と思われたが、新しい配列で個体が復活することが分かってきた。これは種の自然崩壊かと疑われたのだが、種全体の中で個体個体が変態することが分かってきた。その後の研究では脳は変わらず体が変化するようで、手足が短くなり肺がエラになって水かきができる事から、人類は将来海の中で生活する事になると考えられている。
(Y) 息抜きの一発芸 プシュッ






つづく

ブッダの行方 番外編 ブッダの体について

◉前提


この記事は学問的な事として書かれていますので、宗教や人生論等として読むと勘違いしてしまう事があり得ます。どの様に生きるかではなく、何が正しいかが問題となっているからです。人生論なら、人間の目は内を見るようにはできておらず、内には空虚しかなく、空虚の果てには発狂という事さえあり得ると言われています。ただ学問としてならば何でそうなるかは分かりませんが、どこまでも真理の追究が許されるのと、精神的な安全も保証されるからです。ー男のようなつまらん話ー


おりしも世は女のように春で、桜も咲き始めてこれからが花の季節です。春眠から覚めれば仕事に遊びに体を動かしましょう。どんな人でも行動からしか価値ある事は生じませんし、何かしら体を動かすことでしか気分転換さえできないと考えられます。あとは食べて飲んで喋って熟睡でしょうか。


※桜と彼女を写真に撮ってどっちが花かと迷い、中に入って撮って貰って両手に花


〇無位の真人


ブッダとは何かという説法で臨済は「一無位の真人」と答えており、非常に有名な言葉だが、これと同じ答えをした人は多いと思われる。この真人という意味はこの肉体だー体を持った人ーという事である。


※例えば密室で彼女にブッダとは何かと問い、真人という答えが返ってきてほしい


<言葉による教えとしてはこういう話が連綿と2500年行われてきている。わたしが不満なのは、仏教の言論でさえ客観的、実在論的でしかなかったという事である。宇宙の実在は宗教的実在であり、それは心の真実なのだから、その真理は観念論でなければならない。ただ一般常識が素朴実在なので分かりやすく説くと実在論的になってしまうのであった>


〇人間、或は凡夫の体について


人間、或は自分の体とは何かと聞かれてどう答えるかは、個人的な事でもあるし簡単な事でもないだろうしどうでもいい事なのだが、常識的ではあるだろう。ただ肉体なのだから精神的な事は除かれるであろう。


〇ブッダの体について


ブッダの体は、精神の因果によって凡夫がブッダになったその体と言う事、その現実である。全事象に加えて、自分の体のその物質現象が、空という事である。精神の因果によってというのは、肉体の因果はブッタに於いてもー全能ではないのでーどうにもならない事から明らかだからである。
※道元は、万法の方から自己が明らかになっていく時に、精神が無になっていき体が空になるいく事を、心身脱落脱落心身と言っている。


@前にも書いているが、「ブッダの行方」という意味は、凡夫でありブッタであるわたしは修養中にその間にいる訳だが、その時の「ブッタの行方」という事である。そして恐らくこれは万人に共通であろうということも含んでいる。


ブッダになる事が精神の無化であるなら、精神が無なのだから問題は体だろうというのが、ブッダの体の主旨である。そしてこの番外編は仮説を含んだ無化の過程が、どのように修養として認識されていくかということの概略である。


そこで凡夫は精神が無となっていないのだから、意識としては主に言葉の流れであり、無意識も含めれば、主に感情の流れであり、他の雑多な記憶はあまり表出しないのではないかと思われる。精神の因果としては、確かではないが体感の流れであると考えられる。


※具体的には特に坐禅中の観に於いて、言葉の流れーこれが最も意識される(と快より不快や苦の漠然とした澱みの現象)のだが、に加え感情と雑多な記憶の流れーこれらは坐禅中は静かにしているので明確ではないのだが日常生活において重要ー、に加え体感の澱んだ流れが認識されていることが重要と考えられる。なにしろこれが煩悩の根底にあるのだから。自分の体感は触覚という「感性」である。つまり精神ではなく、精神が感性として現れている特殊なものである。(これらは病気の現れでなければ、健康時の頭痛、目の凝り、顔面凝り、首の凝り、肩こり、背中のこりー脳から神経が顔、そして首を通って肩から背中へと密集しているー、体調の悪さなどが考えられる)又これらの外界には一般感性がある訳である。
ーこれらの観(感性認識)がそのまま修行になり、智慧が悟りを深め、涅槃に至らしめ、凡夫がブッダになっていくのであるー


ここで意識、無意識は、人間の精神であり、精神の因果は自分の体感なのだから感性の五感の触覚ということになるだろう。これは極めて特殊な事であり、それは自分の存在の謎ー或は人間の存在の謎ーに直結しているからである。


これらを為すのは自覚であるから、内的直観の智慧だろうし、それは目が自分だけは見えないように自覚するものだが自覚はされないので無であろうし、それが自分の主観である。これは外部の認識において感性として現れている。
※これについては、わたしのtwitterにある程度詳しく書いてある

ブッダの行方 4 精神の因果について ⑴

◉精神の因果についての考え方


自然科学が生命の体を含めて物質や質量の科学であるのに比して、人文科学というのは心や精神の科学である。これらが分けられているのは、互いに原因→結果の脈絡がつかないからでもあろう。これの一番近しいのが、医学と精神医学や心理学の脳と心の関係であるが、脳と心に因果関係はつかないであろう。


※自然科学一般の客観としての物質の研究が、主観ーこころで行われているのだとすれば同じ事である。こころと物質の脈絡がつかないので自然科学が必要と考えられる。


で、自然科学に原因→結果の探究からその法則性をさぐる原因論的研究と、その形態の本質から規則を見つけたり分類等を行う帰納的な研究とがあるので、人文科学ー精神の科学ーにも、原因論的な方法と形態学的な方法とがあるだろう。現在の精神の科学はほぼ形態の科学なので精神の科学を原因論で考えてみようとするのが精神の因果の考え方である。


※こころと脳の関係は両者に因果関係が付かないので因果論としては無意味であり帰納のみである。


◉これまでの精神の因果についての探究


〇西洋と東洋


詳細に触れることは能力として不可能で目的でもないので、雑に総合として考える。「自分の体を含め宇宙が因果に見えるのが認識の方に理由がある」というのは非常に魅惑的な考えだが今回はふれない。ー時空が存在でなく認識であれば因果も存在ではなく認識だろうー


世界が因果というのは常識なので、どんな民族でも同じ感じを持っただろうが、知的に深めたのがやはりギリシャとインドではないだろうか。おそらくだが因果ー原因と結果ーというのはギリシャでありインドー仏教ーでは因縁とか縁起と言ったのだろう。そしていったん始めてしまうと進めざるを得なかったのであろう。


これの違いは何かと考えると、因果と言うのは世界が客観的に因果ということであり、因縁というのはそこに主観―自己ーとの関係が入っていると考えられる。なので仏教は観念論的であって西洋は実在論的だったと言えるのであり、結果ー精神についての因果ーという考えが西洋では低かったと言えるのだろう。なので精神の因果とは精神を因縁ではなく西洋的思惟で考えることと言える。


@私見の余談@


これの経過として人類がアフリカから五万年以上をかけて、西アジアやヨーロッパ、インドや東アジアへと広がっていった流れが考えられる。


これから人類の文化の発展過程のイメージが湧くのが、白人系と黄色人系の分化であり、白人の方は知性というのが深く考察されるようになって、黄色人の方は人間存在の達観であった。これは一万年とか二万年とかの経過で歴史には残っていないが、そっち系統の天才がいて継続されたというのがどうしても考えられる。その流れが文化を特質づけたように思われる。例えばインドの最初の文明を作ったーアーリア文明が入っていないートラヴィダ人は黄色人の流れだが、インドの文化の原核は中国の先史時代と似ているのではないかと思われる。又西では言葉ー知性ーのその系統の天才がいたのだろうと思われる。先史時代の話である。


文化の進化の過程で人類が驚いたのは、我々がここにいて自分がここにいたと言う事と、言葉についてだったろう。言葉が有ったから自己が明確に意識された訳でもある。
そしてこの言葉の性格や論理構造は五万年前も今も変わっていないはずである。現代で言えば取り残された遅れた部族の言葉もということである。
部族の自覚としての自然宗教も生まれていった。自然宗教を未熟と考えるのは間違っていると思う。一部迷信もあったという事でありそうでなければ長く続く訳がないのである。特に先史時代はそうであっただろう。まずかったら修正がされただろうし。


西洋では一般的に人間は進歩すると考えるようだが、これも西洋がそうだとは一概には言えず、おそらく近代科学が勃興してからの妄想であろう。インドでは人間は歴史と共に退化もしくは悪化すると考えるのが普通だと思う。真実は物質が豊かなって智慧がなければ人間性は劣化するというところだろう。物質的な幸福ばかり考える事になったら他に目が向かないのだから、人間が劣化したのは明らかで考えるまでもないと思う。物質が豊かになって生活が複雑になってそれへの適応として知識も増える。でも知識が増えて思考量が増えても、これも智慧がなければ人間の劣化だろう。かくして画一化して全体の部品の一個となり果てるのである。
ー余談終わるー


〇物質とこころについて


一般に物質とこころは物質の方が分かりやすくこころは分かり難いと考えると思うがわたしは逆だと思う。
※女のこころが分からないのは男だからであり、それは男が馬鹿に本質づけられているからで、女の場合は男のこころもよく分かっていると考えられる。一個の細胞を目指す数千万から連想できる。


そこで物質が因果なのは常識に於いては自明であり、主題は精神の因果についてである。心が脳の中にあるとすれば、精神の因果も脳として物質の現象としてあるはずである。ただこれは極めがたいことでおそらく不可能であろう。これはそれが複雑すぎるという事よりも、実在は物質ではなく観念であるからだと思われる。ーそもそも自然科学も物質を観念で説明しているのだろうと思うがー


でもここで宇宙論と同じように精神の因果を物質現象から想像してみよう。


精神の因果というのは、精神の因果も物質の因果に乗っかっているのではあるが、実在としての種類がまったく違っているという事なのだが、人間機械論というのがあるが、人間の体が機械的に説明できたとしても精神は説明できないということである。ただわたしは肉体は精神よりずっと複雑だろうと思うが。


精神の因果と普通考えないのは、こころが因果には見えないからである。こころはどうしても因果には見えない。こころが無意識から説明されても、精神や意識は、本能とか欲望、感情と美とか、意志、記憶、理性、言葉、論理とか夢、想像とかで因果はどこにもない。


であるから精神が因果であればー因果でなければ変化しないだろうー、その下層が因果になっていると考えられ、そこいらが物質現象とごっちゃになっていると考えられる。


^^ サイエンスノンフィクション ^^
※サイエンスノンフィクションーSNF、卵ご飯ーTKG、納豆ご飯ーNKG、コオロギご飯ーKKG、カツカレーKCR、海鮮丼ーKSD、親子丼ーOKD、天丼と味噌汁ーTDM


ー宇宙から脳を見た場合ー


宇宙は一つの質量のみが存在していてそれ以外には何もない。一つが存在するのでそれは無ではなく有である。それ以外はまったく何も存在していない。時間もなく空間もなくそれは変化しているが、これが何なのかは理解することはできない。そんな事は問題にもならない。無意味である。仮に記せば、宇宙は何等かの目的や意志のようなもので、自分を使ってその存在に差別を造ったが、その多様性の一つが生命の動物の中の私の脳で、脳と体と宇宙は一つである。脳は生命である以上細胞の働きだが、その累乗の組み合わせに元素、分子、高分子、タンパク質、電子、他が関与し、そのあまりの複雑さに理解することは不可能である。あまりにあまりに複雑である。ー脳が心になる事はー


ー脳から宇宙を見た場合ー


我々が生きている普通の世界がそれである。わたしが只、今、現在、見ていて存在しているこの世界のみーその奥や裏を含んでーが実在している。最先端の科学による科学的根拠ー観察ーと合理的に想像された世界は実在ではない。それは実在ではなく真実である。真実によって実在を作り出すのが仮想現実といえる。


〇因果と論理について


因果というのは物質が原因→結果として変化している事をいう。論理というのは思考の形式のことをいう。因果は存在の直観認識、論理は言葉による認識であり、この二つには何の関係もないので別物である。ただ因果について考えるというのは論理なので結構勘違いすることが多い。


※世界の名著で偶然に、バートランドラッセルが若い頃の著書で見事に勘違いしているのを見つけた。因果を論理づけてその論理を因果としていた。ただ後の著書で気づいて訂正していたが。論理主義者だからと言う事もあっただろうが。


因果と論理の混乱は、物質ー事象とそれについての名称の二つがある事からきている。例えば人間に実物と名前とがある。自然や社会の事象はそのままにしておけば、因果のままだがそれを考察するときは言葉-論理によって行われる。


※古代人は言葉に驚いた。言霊という考えはどの民族にもあった。神の言葉などもそうだろう。古代人は実物と言葉の区別ができなかった。そして多くの人間は今も古代人である。人間は概念や言葉の世界に、むしろのめり込み浸りきって生きているものである。それで考えた正しい事がー因果と論理の区別がつかずー現実にそぐわなかったという事はごく普通にある事だと思われる。実はこれは存在(存在的)と意味(存在論的)の問題と同じである。
※ショーペンハウアーが哲学者は本よりも「世界という書物を読まなければならない」と言ったのはこれである。


〇精神の因果の問題意識


人間が迷いの世界ー精神的無常ーから智慧によって涅槃ー精神的永遠、空ーに至ることは、心理現象や記憶が無化されることである。これは心理学では説明できないので、精神の因果という考え方ーショーペンハウアーでは意志の否定であったーで説明できるかもしれない。


※わたしは涅槃への変化は精神の因果の操作によるのではないかと考えてきた。従来の経験則の修道法に、心的な工夫が何かあるか色々やってみたが、具体的にははっきりしていない。もちろん工夫すること自体が駄目というのも考慮したうえであるが。
<仮説だがこんな事が考えられる。意識では言葉の流れがあり、無意識においては感情と精神的な苦しみ的の現象がある。その下層の精神の因果は自分の肉体の触覚である体感の淀んだ現象として現れている。とくに顕著なのは首と肩の凝りであるが、その体感を精神の因果の現れと捉える。これらの外に永遠としての純なる感性がある>


〇四諦、十二因縁について


ー序ー
四諦は仏陀の最初の説法であると同時に仏教の実践の核である。仏教とはこれだけとも言える。十二因縁ー縁起は四諦の理論であると思う。四諦は釈尊の教えに間違いないが十二因縁は釈尊の直接の教えではないだろう。同じことは説いたと思われるがもっと単純な形だったと思う。(私見)


釈尊の時代の文化背景には、現代の文化が何の後影もなくその頃のインド文化のみだったのだから、現代文明から見てその説法がどうこう言っても意味はないだろう。ただそれを考慮しなくてもその知情意は驚くべき人物であった。才能に加えてそれが悟りだった訳で、説法を読むだけでそれがわかる。例えば筏の例えである。川を渡ったら筏は捨てなければならないとして、法さえも捨てなければならないとしたのだが、法とは自分の説法の事である。つまり自分の様々な対機説法は重要とはしてない訳である。


ー四諦は分かりやすいが十二因縁は分かり難いー


物質の因果と精神の因果では分りにくい面もあるので物質現象と精神現象にしてみよう。


物質現象と精神現象の区別は古代人にはつかなかった。いや現代人の専門家でさえそうで分けている人は少ない。その必要を感じないということもあるだろう。ただこれは人類の幼稚さを表していて、それゆえに少しづつ意識されるようになってきたと言えるのである。


※人間の場合、物質現象とは体であり、精神現象とはこころである。これはまったく別類として在って互いにほとんど無関係である。これによって自分が二つあり、自分とそれの意識とである。人間の体はこころに影響されない。例えば病気はこころに左右されない。これには反論があるとおもう。
※幸福感が体に良い影響を与え、不幸感が体に悪い影響を与えるのは、こころが体に影響を与えるのではなく、幸福感によって為される行為や、その肉体の状態が体に良い影響を与えるのであり、不幸感によって為される行為やその肉体の状態の継続が体に悪影響を与えると考えられる。例えば恐怖によってショックを受けるなどというのは体の守備範囲である。これで死んだりはしないのである。ただ死んだほうが良いとなったときは死ぬだろうが。勿論幸福感がこころに良い影響を与え続けて、不幸感が心を不幸にし続けるということは当然あるわけである。そうしたら良い行為が体を良い状態に保つだろう。ただ常識的な意味で良い精神状態が良い身体の状態を保つー心が体に影響するーということは言えるのだろう。


肉体の苦しみは物質の因果(ただし物質は認識できないのでそれは触覚なのだが)、こころの苦しみは精神現象もしくは精神の因果である。


これは肉体現象と精神現象の区別は、仏教哲学等はこころから見た世界の学問なので東洋の方が先んじていて、西洋哲学では最近なのだが、おおざっぱに考えても仏教哲学でも西洋哲学や科学でも時代と共に明確に区別されるようになってきている。


(輪廻)→アビダルマ→中観→華厳→唯識、を見ても心理現象が物質現象から区別されてきたし、西洋哲学や科学でもそうである。


そこで四諦の、苦、集、滅、道だが、これは釈尊の教えに間違いなく、それも初期のものであり本当に初転法輪だろうと思うーただこれの分析されたもの(苦が四苦八苦とか)は後のものでかなりあっさりしたものだったと思うその方が重要だろうー。教えとして考え尽くされていて、後の仏教の展開はすべてここからきている。苦とは人間存在は苦しみであるということ、集とは人間存在が苦しみなのは、煩悩の集まりがあるからということ、滅というのは集は滅することができるということ、道というのは滅の方法として八つが方法が考えられるということである。これは煩悩の滅なのだから殆どこころのことと考えて問題なく、ーだから分かりやすいのだがー実際には釈尊の考えとしては苦はこころだけではなく、肉体も入っている訳である。これは深いといえば深いのだが、実際釈尊にとっては、聞く側の人類の未熟によって、精神現象と肉体現象との区別をつける必要がなかったのだろうと思う。釈尊自身が思想的に区別がつかなかったのかもしれないが、悟りというのは心身の区別がつくことでもあるはずだから。実際に悟りはこころがと体(触覚)に関係することであり、心が無(煩悩が滅)の時に、体や事象が空になる事と考えられるからである。ー心身脱落ともいうー


@付記(私見)上記の観点から見た輪廻の意味@


物質現象と精神現象の分類があることから、輪廻には物質現象の輪廻と精神現象の輪廻があって、この二つには原因と結果の関係は成り立たないことになる。これから輪廻の深遠なものと迷信的なものとがはっきりとすると思う。


物質の輪廻というのは、おそらく古代人の冴えた感性に訴えたもので、生物の特に動物の肉体が、親から子へと、生まれては死んで死んでは生まれてくる事から来ていると考えられる。これが宇宙全体としての円環的な繰り返しの変化に見えた訳である。物質的に見れば個は、人間も含めて自我がないのだから、まったく同じ様なものが生まれては死んで死んでは生まれてくるのを繰り返しているというのが現実だろう。それを転生といえばいえる訳である。そこで自分はといえば、直接ではあるが、他と同じ様なものの一つとして、ただ存在しているだけという事になるだろうし、死んだらまた同じ様なものが生まれてくるだろうという事になるだろうと思う。これはアーリア人の文化であり同じようなものがギリシャの古代にあったと言われている。考えて見ればプラトンのイデアはここから来ていて、同じ様なものがトラヴィダ人の人生の達観から結びついたのが梵我一如とかニルバーナとか考えられる。


精神の輪廻は、特に人の精神が輪廻するということだがこれは現代になってよく言われるようになった。昔は区別しなかった。たとえば深層心理学の集合無意識で、個人もしくは集団とかの記憶が無意識の中に遺伝していくという事である。そこで精神的なもの文化的なものが遺伝子となって遺伝すると言う事が日常的に言われる。精神的なものが遺伝子になるというのは、疑わしい面があると思う。遺伝子と言うのはそんなに複雑なものではないので、そこに様々な精神現象の記憶を詰め込むことはできないと思われるが、面影だけが残るのだろうか?善因善果、悪因悪果などの業は、個人の場合も子孫の場合でもこれで理解できる。
@付記終わる@


そこで十二因縁だが








つづく

趣味と実益を兼ねて

善良というのは悪魔にとっては精神病なので


善人には悪魔の顔が天使のように見えている


どんな治療法かは分かってないが魔改造の初期といわれている



神が死んで余裕ができた悪魔は暇を持て余していたが


小便をしているときに面白い事を考えた


「人間にRNAワクチンを使いたい」


「人間にDNA昆虫を食べさせたい」


RNAの方は人口削減というどちらかといえば実益で


DNAの方はどちらかというと美的な趣味であった


天使の御業のRNAは命の救いで


DNAは不足する食料の命の糧だったが


人口削減してからも昆虫を食べさせるというのが


悪魔のこころを痺れさせた



#サタニズム #ワンワールド #グレートリセット #ニューワールドオーダー


※サタニズムとしては、コオロギを廃棄コオロギパウダーで育て、不足分を人肉その類とかにしたら最高だと思います(悪魔で空想です)

ブッダの行方3悟った後の感性及び諸精神能力の変化について

前書ー悟りの変化についてー


悟りには悟りの初歩ー智慧が認識ーから完全な悟りー涅槃ーまである。釈尊が提示したのは完全な悟りー涅槃ーだがこれが仏教の特色としてある。


この涅槃を除けば、人類のあらゆる良き智慧は、この智慧の初歩から涅槃以前の間にあると言えるだろう。


仏教が人類において良き宗教だったことは疑えないが、それが社会的に果たした役割からいって他の宗教よりも優れていたとはできなくても、釈尊の体験とその教えと実践が人類の最高であったとは言えるのである。


これが何なのかというテーマが「精神の改善」について、或は研究中であるが「精神の因果について」である。


この悟りの初歩から涅槃までの変化は、人類のあらゆる良き智慧が、個人の中で部分集合として起きていると考える事ができる。



中書ー修養中の心の変化についてー


◎まずこれである


④◉修養は確実に進んでいるが、一進一退もあり中々分からない。道の半ば程で自分が変化したことが分かってくる。実際変化している。


悟りから涅槃へ至る過程の④◉で、この変化に普遍的に気づくようになるが、それまでは気まぐれな宗教体験だったのである。


ー実はこれは一人の人生において自分の成長に気づいたときにそれは十年前の自分のとの対比というのと同じようなものであるー


〇漸悟と頓悟


上記が漸悟だが、頓悟というのがあって、いきなり悟りが深まるというのがある。これは必ず漸悟の過程で起きて、何が起きるか分からない個人的なものである。またいきなり涅槃へ頓悟というのもあり得ない。この頓悟の為に外から刺激やショックを与えるというがそもそも禅問答の始まりで、肉体をシンボルとして使ったのが多くて言葉は少ないというか意味が問題とはならない。人間は言葉で疑問を呈するが悟りの答えが言葉の意味にある訳ではないので。公案と言うのは禅問答の追体験擬体験なので、頭で考えて答えを出すものではない。その先人の体験を提示するものである。ーもっと坐禅しなきゃ分からんと言われて坐禅させられるー



本文ー涅槃の後の感性及び諸精神能力と本能についてー


〇涅槃の後で変わる精神能力とかと言うと、普通は二つの立場を対立させてつまり涅槃の前と後でという事だが、それでその違いを無意味に述べるのであるが、これは実在論的な認識なので私は取らない。このブログはできるだけ観念論的世界認識に常に一定させている。


この場合二元的対立は帰納法なのだが、一元的方法は原因論である。


◎存在と認識の仮定


⑴宇宙が恒常的に存在していて変化しているが、それは質量のみである。ー時間と空間は認識であるー
⑵質量はその意志によって生物が必要な環境と生物とをこねくって作ったが、その延長として人類があって私の肉体を作り上げた。
⑶その宇宙の一部として私の肉体が数十年存在するが、それには認識というのが備わっていて、生きる為の本能、動物的悟性、感情、知性や言葉などの同根(エゴ)からきている。これの根は自己保存のためのものだろう。
⑷エゴを人間にとって精神と称していいし、それ以外の認識に感性がある。感性は高尚な機能であるが、何か目的があって作られているのでないならば、根は種族保存とか生存の為の環境の保全からきているだろう。エゴが悪の原因、感性が善の原因、と根拠である。感性については今回は触れないが、わたしのtwitterにはある程度詳しく書いてある。
⑸存在しているのは質量と物質のみであるが、宇宙が実在として現れてくるのは認識によると考えられる。よって質量や物質の存在は直接には認識できない事になろうー五感によって認識された物質は物質そのものではないし、自然科学の物質や質量は知性と科学的根拠によって垣間見られた宇宙であり、合理的に解釈され想像された宇宙であろうー


◉わたしの精神について


わたしの精神というのは、他人に比してのわたしと言う事ではなく、人間である事のわたしという事である。であるから人間の個人一般に共通だろうと思う。


そして精神と言うのは、肉体ではなく精神という事だが、これは宇宙の観念性から感性特に五感を除いたものなのだが、分かりやすく言えば、自我の事である。肉体は物質なのだから直接認識できず垣間見る事しかできないだろう。例えばこころはあからさまに在るのだが、その時脳の中で何が起きているのかは無限分の一しか分からない。また感性はと言えば宇宙から自我を除いたものである。


◉わたしの精神のこれまで形態から


〇諸現象や精神は無常で苦しみであり、生じたり滅したりしている。生じたり滅したりし終わって、寂になって楽になる。


これは精神が変化していると同時に、根源的に変化し終わると言っている釈尊の言葉である。


人生は一般に喜怒哀楽の繰り返しの変化であって、苦あれば楽あり楽あれば苦ありの無常で、その中で希望の青い鳥を探して生きていくという一般的な人生観は、ある意味常識的で健康的であるし、そこから逸脱するのも難しく、へたな事を考えたり変な事をやってしまうと、取り返しがつかなくなるという事も、事象としても精神的危機としてもあり得る。


人生の見解についても色々あっていいが、わたし自身としては人生論について聞くに堪える話は殆どなかったし、納得のいく人生を送っていた人も皆無に近かった。そしてわたしもその一人である。


人生は苦しみであり、涅槃は楽である。ということこそが宗教の山頂でありそこを目指すべきと思ったわたしは、仏教と禅を選んでただ根性がなかったのでちんたらとただ止めることはなく実践してきたのである。その間に一心不乱ではなかったので様々なことを考えてきたし色々な工夫もしてみた。結局言えるのは、①心の改善は自分の力ー自我ーではどうにもならないという事と②結局坐禅しなければならないという事であったが、自力に思える坐禅というのが①としても実際的な有用性としてよくできているという事であった。それは気づき(正念)の継続ー正定ーの基本形態だからであろう。


※そしてラッキーだった事に女に持てなかったので自分の性欲はともかく悪い女の情念に現実に引き込まれ弄ばれることがなかったという幸運はあげられるー女は弱しされどその情念は強しー


今の時点で言うと、、一切皆苦が寂滅為楽になった時に、涅槃の後の諸精神能力についてが今回の主題だったのだが、苦しみが消えるに加えて、よく無我ー自我がなくなるーとか、感情が平静になるとか、欲が無くなるとか、言われるがこのことについて考えてみようとしたのがそもそもだったのである。


◎自我や精神が無くなる


自我に感情も欲も含まれるだろうし理性(知性)も含まれるだろう。そこで自我自体が消えるかどうか考えてみると、自我はすっかり消え去ると思われるが、自我の記憶はすっかり残っていると思われる。


つまり無我というのは、自我が消え去る事ではあるが、完全になくなることではない。無我の人にも勿論知性と記憶とがはっきりとあって、感情や欲もある。この状態は、それらに束縛されない形で残ると言えるのだが、それらが純な形であると言っても良い。


宇宙が直観であり、直観の全体作用が感性であるときに、感情は自我の全体作用であるが自我に欲望、理性、記憶、言葉が含まれるときに、自我が感性に飲み込まれてしまって在る、これが涅槃と考えられる。


これは心や精神が、意識、無意識の話で理解はできないと思われる。蓄積された意識や無意識が消えて、精神能力全体作用の一部として残る。この作用は意識の下層に無意識があるでは説明できないのである。ー唯識では仏性は阿頼耶識を超えて在ると表現されている※ー


〇私見では阿頼耶識を超えて在るのは五感(五識)に過ぎないのではないかと思われるが、五識が煩悩なのは、確かに五感の記憶は煩悩であろうが、五感を煩悩と考えてしまうのは唯識が以前の仏教哲学を継承しているからと考えられる。六根清浄で分かるように、煩悩は五感を汚しているという考えがある。


※後で調べたら仏性を九識とするのもあるが普通はこんな考えはしないようである。阿頼耶識の習気がどうなるかが問題らしい。精神の因果を論じるにあたって唯識を勉強中なのでそこで詳しく考えて見たい。精神の因果は、唯識の依他起性とショーペンの根拠律の根の意志とから発しているので。



ブッタの行方3で書きたかった事は、㊀修行の半ばになって心の変化が明らかになってくるという事㊁無我とは何かという事、だった。不十分ではあるがこれで終わりとするが、これらについては今後も何回も触れることがあると思う。



ブッタの行方4は仮説・精神の因果についてだが、これは凡夫が仏陀になる変化を精神の因果として見てみるという話である。精神の因果というのは、物質の因果に独立して精神の因果があり、それによって精神現象を原因→結果で説明できるという事である。