schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

ブッダの行方 番外編 黙照禅と公案禅

黙照禅と公案禅を比べると、黙照禅は仏教としてオーソドックな坐禅の形と言えると思う。


と言うのは、釈尊の坐禅も、或は初期、部派、上座、大乗、瑜伽仏教も恐らくはそっちの系統なのだろうと思う。たぶん。


黙照禅は日本禅においては曹洞禅なのだが、曹洞禅と公案禅は明確な区別があると同時に影響されあっている面もあるだろう。


公案禅の仕上げを道元禅でやっている人は多いし、公案禅を参考にしている曹洞禅の人もいる。


ただ純粋に曹洞禅ー道元禅をやって大成した人ー沢木興道などのように公案禅に批判的な人もいるのである。


反面、黙照禅では悟りのきっかけが分かりにくくてだめだという声も聞く。


臨済禅の公案禅は、仏教の中では特に異端でありー教条ではなく修業形態としてー


悟りを先にしてー見性してからー修行するところに特徴があり、ーただあくまで坐禅が修行の中心でー


これもはっきりするまでは中々はっきりしないが、はっきりし始めるとどんどんはっきりしてくるという特徴が持っている。


◉私見では、公案はいささかも哲学とはなり得ないと思う◉

ブッダの行方 番外編 接心会

新型コロナウイルスも普通のコロナウイルスに変異した。そして未来永劫変異して行くことだろう。


コロナ騒動が終わったので接心会に参加してきた。今回はいつもの所ではなく地元から離れた初めての場所だった。


今回気づいたのは、坐禅の時に目を半眼にしようとしては駄目ということだった。あくまで自然に一メートル先を見るということで思考の放下がしやすくなるようだ。


それから見性の意味が明確になったということがあった。


家に帰ったら梅雨入りしていた。つゆ知らなかった。

心の中にだけ秘めて口にできなかった言葉

㋩いつまでやってんだよ


㊁誰もそんなものしねーよ


㋭ぜんぶ嘘なんだよ


㋬おめーが阿保なんだよ


㋣利口だと思ってるから馬鹿なんだよ


㋑きちがいは自覚できねーんだよ


㋺まじめにうんこ嗅いでんじゃねーよ

ブッダの行方 番外編 坐禅について

坐禅によって、心が落ち着いたり、さっき起きてしまった不快な事が、すぐ忘れられるようになるだけなら、それは心の変化であり、何の不思議もない。


不思議なのは、坐禅の継続によって、世界のその物質現象が、変化してしまうということである。


これは世界、その実在が、物質現象ではなく、観念的なものである事を、証明していると考えられる。


世界の実在で一番身近なのは、直接な物質現象である、自分の体である。他の物質は、自分の外にあるので、あるらしい事しか分からず、好きな女だって本当にいるかどうかは分からないのである。
※世界の実在というのは、存在する物質自体あるいは物自体が、認識されて、露わになっているものと定義して良いだろう。その世界を宇宙と言っても良いのだが、そこまで言ってしまうと実在からはるかに離れて数の空想で、億光年とかで世界の果てまで行ってしまうので、世界の実在=自分の体にするのである。


坐禅とは、身を整え、心を整え、呼吸を整える事と言われている。このブログは、宗教の話ができるような、真面目が書いているのではないので、坐禅において、身を整え、心を整え、呼吸を整えると言うのは、何事なのだろうと考えてみる。


祈りや瞑想はどんな宗教にもあるが、動物の行為という観点からは、坐禅と言うのはおかしな行為にも思える。ただ人間は神経質な動物であり、それゆえに色々な複雑な行為ができると思われ、動物とはまるで違う行為もするとも考えられる。


坐禅において、身を整え、心を整え、呼吸を整える。というのはただ坐禅をするという事を言ってるのであろうが、呼吸を整えるというのは分かるが、心を整えるとなると分かりにくくなり、身を整えるというのはもっと分かりにくくなるように思われる。


そこでまず心と体とは具体的には何なのか考えて見る。そういうブログなもんで。

とかくこの世は生きにくい

朝と昼の寒暖差が激しい。


窓を開けたら蚊に食われたので蚊取り線香をつけた。


暑くなったので扇風機を出した。


とかくこの世は生きにくい。


そんなもんだと諦めたとき差別が平等になるかもね。


午後は寝転んで夏目漱石の膝枕を読んだ。