schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

小さい秋

誰かさんが誰かさんが誰かさんがだーれてる


小さい秋小さい秋小さい秋見つからない


扇風機の風もシャワーの水も一月前より生ぬるいだろう


開いた窓から虫の声


虫の音も虫の音も虫の音も蒸ーしてる

ブッダの行方 番外編 最初の公案 その主観と客観

◎これを書く意図は、禅について、西洋的な主観と客観からどのように理解できるか或いはできないかと言う事と、このブログの基本であるショーペンハウアーの主観と客観の理論的洞察が、勿論二つには何の繋がりもないのだが、禅の実践に応用されているかのようだという常々感じる驚きにある。つまりはこれは理論の証明といっていいのだが、ただ今回はこれについて丁寧に考察するという事ではない。


◎最初の公案というのは各道場で、無字、本来の面目、隻手の音声の三つの内のいづれかだと思われる。最初の公案は、主観と客観は本来一致していることの「実体験」をさせるものと考えられる。


◎主観と客観が一致しているという体験は、それを体験するまでは、主観から見ていくか客観から見ていくかの違いがあるが、公案禅では最初に問題にするのは主観である。そこから始めるというのは、宗教の人類史的にも極めて異常なことのように思われる。つまり真実の自己が、宇宙との関係から見えてくるのではなく、自分の中に見つける事から始まるという事だからである。ただ主観と客観は一致しているのだから、主観が主で客観が従という事なのであるが。


◎これはこのブログから見た最初の公案ー初関ーの主観と客観からの分析であり禅の伝統的な見解とは関係ない。


◎このブログは世界の正しい解釈、その正しい記述が主題であり、その客観世界は主観が反映されたものであるという立場に立っている。


◎このブログの最初には、ショーペンハウアーの西洋哲学の主観と客観の考察から主観の定義が述べられており、それは「主観はあらゆるものを認識するが、決して認識されないものである」という、存在する主観についてである。


◎主観と客観については、人間の存在ー直観認識ーと認識ー概念認識ーが明確に区別されることから、存在についての主観と客観と、認識における主観的と客観的の四つが区別される。
※存在ー直観認識である①主観ー実在する主観、②実在する客観、、と認識ー概念認識である③主観的な解釈、④客観的な解釈の四つである。


◎無字


無字というのは無の事で、無の解釈ではなく、無の体験である。この公案は無が直接問題になっていて極めて公案禅的である。これは本来の自己の主観が直接問題になっていてそれが無だということなのである。しかしそれの体験の見解では、それは無の哲学的解釈ではないのだから、具体な事象についてその体験を述べなければならない。私的な体験ではこの事象にも自分の肉体が使われることが多いようである。かなり普遍的な無の公案でさえもである。坐禅の後なので事象が自分の肉体になってしまうという事はあるのだが、そうは言ってもこれは驚くべきことであり、禅においては主観が無なのだから、自分の体は客観として認識されていることになる。





◎隻手音声


これは両手で打つと音がするが、片手だけからでる音を聞けと言う意味だが、自分の肉体である片手が問題になっている。ネットを見ていたら、「この片手で師家の横顔を殴って音を出した奴がいたがこんな事では通らんぞ」というのがあった。師家の所に入室して問答する前と後では仏に対するインド式の丁寧な礼拝をするが、これを行うと師家に何をしてもいいという事になっているらしい。室内の事は口外しては駄目なので他の人が何をしているかは全く分からない。殴るというのは禅の伝統の表現で相手を否定する事なので中には師家を殴る人もいるかもしれない。これは音を出すと考えてしまった作為があるので駄目だったのだろうと思われる。






つづく

新暦の七夕

今頃の季節はまだ梅雨で晴れて空が暗くなると南の空にはさそり座が光っている。


星の集まりの天の川はまだ東から登りつつありその中でこと座と白鳥座とわし座の一等星で作る三角形がよく目立つ。


その三つの一等星の中のベガが織女でアルタイルが牽牛である。


今日は八月の七夕のように暑い。二人は当然のようにエアコンをつけた。


秋の虫が今泣かなければならないから泣いているように、二人は年に一度の出会いに体を何度も燃え上がらせた。


牽牛は男だし織女は淑女であったがそれは自然であったろう。


年に一回の邂逅というのはその時代や文明の違いや出会いの機会が多いと少ないでも違う。


その現実で別の男や女を選んでしまいその恋の終焉というのが現代では多いだろう。


でも織女と牽牛の愛には何か強いものがあった。そしてその強い愛は結婚で終わってしまう事ができない。それがその愛を維持させていた。


恋は不思議ね 消えたはずの
灰の中から なぜに燃える
ときめく心 切ない胸
別れを告げた 二人なのに

総合的人間の宗教と芸術と学問

総合的な人間というのは、一人の人間が生まれてから死ぬまでの現在の事であるが、


その時に宇宙全体が現在なのだから、


宗教と芸術と学問は、その宇宙の三類となるだろう。


なので宗教とは、宇宙そのものの活動であり、


芸術とは、宇宙の感性であり、


学問とは、宇宙の学問となるだろう。


ここで自分としての総合的人間は、一つの動物がただ生きている事であり、


その中に動物の文化の三類が、最上位概念の宗教と芸術と学問として、一つのその総合的動物の中にある事になる。

芸術と宗教と学問という分類について

※分類は最高の類から分類されていくから分類と言われるのだが、
類の上位は族といい下位は種であるー族⊃類⊃種。生物の分類を見よ。
実際に存在するものの集合が、概念で分類されたときにー族概念⊃類概念⊃種概念となるのだろう。


◎芸術と宗教と学問


芸術と宗教と学問の三つが最上位概念ならば、この三つには何の関係もない事になろう。なぜならば、関係があるならば最上位概念ではないからである。


つまり、たとえば詳しくはないが、美学、芸術史、鑑賞を除く東洋美術、宗教芸術とかは芸術ではなく学問であり、宗教史、仏教哲学、キリスト教神学等は宗教ではなく学問となるだろう。仏教芸術、キリスト教芸術等は宗教ではなく芸術であろう。


芸術と宗教と学問が族概念として分類されるならば、ー明らかに違うのだから分類されない訳がないのだがー


率直に言って、〇芸術というのは感性でしかなく、〇宗教というのは自分のより良い生き方でしかなく〇学問と言うのは言葉の命題による知識の連なりの集まりでしかないことになろう。


※これだけでは抽象的だと思われるので、人生に於いて考えて見ると、宗教の自分のより良い生き方というー幸福についてはー、実質的に芸術や感性と同じであり、これに加えて実際にはそれ以上に重要なのだろうが人生の行為や実践等であろうが、学問とは殆ど関係しないことが知らされてくる。学問を好む人はそれを感性的に好むのであろうし、そして人生の実践として、事業や仕事としての努力や達成を目指し選択したといえるのだろう。