schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

直観と精神からみたオルガムス

◉前提


宇宙もしくは自己が直観と精神から成っているという哲学がこのブログの前提である。この哲学というのは、真の哲学なのであるから何の恣意性もあってはならず※、ただ宇宙の真実の言葉による表記ー真理という意味でしかない。


※言葉による表記に恣意性があるので、宇宙の真実に恣意性があるという事はない。哲学とは宇宙の真実についてでありそれについての記述ではない。言葉は直観ではなく精神でありその恣意性は精神の恣意性からきている。だから人生哲学は複雑すぎて学問的な哲学とはなり得ていない。文学であり人生論と呼ぶべきであろう。ただ言葉における主語についての正しい述語は真理であり、善とか悪、正義、幸福と不幸、義理と人情、苦と楽などの重要な概念については盛んに論じられるのである。これと同じで人文科学や社会科学も科学的に観察して考えてみるという事であり証明が確実という事はないだろう。


直観と精神といった場合、この哲学は完全な観念論なのだから、一つの宇宙である一つの観念が直観と精神に分かれているという事であるー真実の宇宙は直観のみであるがー。これは二元論的であるがそれは一つの人間に男と女があると言ったようなほどのことであろう?。


直接存在する宇宙である自分の体を含めて、物質はと言えばある事はあるのだがいや宇宙は物質でしかないのだが、それは意味不明、価値不明のXでしかなく、人間にとっての実在の宇宙のその意味その価値は観念でしかない。


直観とは感性であり、精神とは自我の感情と記憶と思考である。これらは単に認識なのであるから宇宙の実在はただの認識であり、つまりはこれは存在である物質Xの認識な訳である。この認識が宇宙の直観を直観認識<実在表象、の感性認識とも言える>、精神を概念認識<記憶表象、の抽象認識とも言える>と言って良いだろう。


◉オルガムスとは何か考えてみる


宇宙はすべて直観と精神からできているのだから、オルガムスも直観と精神からできているはずである。直観とは五感の感性ー触覚、視覚、聴覚、臭覚、味覚とその印象ー、精神とは思考と感情である。そして加えて振り返られているのだから、意識あるいは自覚された直観と精神があるだろう※。


※ここで精神ー自我、感情、思考ーが感性によって意識されるという事が起こっている。これが芸術性である。精神が精神で意識されることが人生の苦悩の出発だろうと思われる。


●オルガムス自体というのもあるはずだが今回は考えない。現実に上記でどんな場合でも説明できるはずである。


◎付記


男と女によるオルガムスが本来と考えられるがそこには最高もあるがずれである気まずさがある時も多いだろう。そこにオナニーの気軽さがある訳である。男と女がオルガムスに満足した時にそれはそれぞれの観念ー感性と精神ーが一体となっているはずである。意識されたそれぞれの感性と精神は対位であり、一体となった二人の観念も対位である。そしてその時の二人の肉体の形が体位である。

池のほとりの百合

百合が咲いていた
百合の花のような百合子は
異次元の妖美さで
わたしのこころを悩ませる
あの目と眉、鼻と耳
そして唇の動き
その異次元の配置と言葉が
わたしを虜にする
強い匂いの百合、この傍らには
小さな池があって
お腹をすかせたかわうそが
なまずを追いかけていた
それを葉陰からたぬきが見ていて
そのころ草葉はまだ緑だった

銀河系調査隊<改変版>

初めて火を起こした原人は焼いた肉を食べてからじっと手を見た。それから首を上げて星を見つめた。


地球歴二十万二千二十三年、二百年振りに調査隊が結成された。前回は球状星団だったが今回は銀河系の中心の反対側辺境の調査である。球状星団は古い星が多く期待されたが古い地域では生物は死滅しており文明の痕跡も皆無に近かった。


科学者は生物学者と歴史学者のみで約三百人、それに軍人約七百人一般人約八百人だった。一般人には家族も含まれていた。


宇宙船は古くから使われている中型の球型船で直径二百七十メートル、側面に直径三十六メートルのやはり球型の船が六個内蔵されている。


この時代、人間の平均寿命は二百四十才である。二百年ごとに調査隊が結成されるのは寿命と関係があった。それは抽選ではあるが一生に一度機会が与えられるという事である。


現在地球の人々は経済問題から解放されていて自由な職業に就くことができていた。職業は趣味とほぼ同じであったが、意に沿わない仕事もあった事はあったのである。


宇宙生物学の原因宇宙生物学と原因知性生物学はおおよそ解明されていた。原因宇宙生物学というのは宇宙生物学でその生命の同一性を原因から解明したもの、原因知性生物学は知的生命の同一性を原因から解明したものである。この二つの学問は元素がなぜ生命になり知性になるのかに科学的根拠を与えたので通称で原子生物学と呼ばれている。


原子生物学の仮説は何百万回かの調査によって宇宙にはある生命形態以外はないということが証明されていた。


人類が一万光年を数年で航行できるようになってから十九万年経つ。


この間行われた生命調査では宇宙はその環境があれば容易に生命の発生が可能であるが、ただ殆どは単細胞生物のみであった。多細胞生物の発生の試みは常に行われているが環境によって維持が困難ということがあった。ただ多細胞生物系は発生してしまえばとても多様で生命力に溢れている。


これと同じように知性の試みも常に行われるのだが、環境への動因の継続が困難なのだった。


遺跡調査による全うした知的生命のその種の寿命は百万~二百万年程度が多い。これだと銀河系に知的生命が十万発生したとしても出会うことはまれである。さらには宇宙人の遺跡の調査ではその九割以上が自然科学発生後数百年で滅んでいる。


哲学者はこれらの説明のために、時間と空間、数学、五感、概念や論理を無意味化した。そういう与えられている認識能力や形式では生命を説明できないと考えた。


生命や知性を作っているのは宇宙であって人類はそれに関知していない。哲学者は人間の立場ではなく宇宙自身になって生命を捉えようとしたのであった。


宇宙人の遺跡の研究は面白かった。中でも終わりを全うした文明の遺跡は役にたったのである。その文明はある特徴があり科学技術は高度なものであった。


ただその文明が広範囲に拡張されたという形跡がなかった。その範囲は近い恒星系に限られ母星に比べて人口はかなり少ない。


当然考えられるのが経済が十分豊かになれば、経済の豊かさや富の蓄積を目的化する個体が少なくなって、共同体の目的もそうではなくなるだろうという事だ。


自分の種族を何が何でも保存しようという気もなかった。どうも滅亡を伸ばそうとした努力の跡、その形跡がない。滅亡を滅亡にまかせ受け入れたように見える。


宇宙人が何を考えたかまでははっきりしないが、幸福とは何かが解明され個人がそんな生き方ができてもう久しい文明だからだろうと言われている。


二百年に一度の銀河の調査隊は明日出発だ。往復十七万光年調査を含め約五年の旅である。


銀河系調査は最小限必要とされていて二百年に一度行われる。これは分類生物学や考古学に特に関心がある者の為だけの戯れの行事だったが抽選で選ばれた者は大喜びだ。


しかし軍人や一般人約千五百人にとっては普通の仕事や生活よりも忍耐を強いられるものだったのである。

仏教又は禅から見た、人間の存在、或は人間の智慧の分析

◉タイトルについて


〇仏教と禅の同一性


知性による物質現象や社会現象そして精神現象の分析は、その命題に様々に類似と相違があり、仏教と禅も分析すれば様々に違いが出てくるのだが総合すれば全く同じである。
※すべてがそうだが例えば男と女、仏教とキリスト教についてみると、総合において男と女は人であり、仏教とキリスト教も人に行き着くー人がいなければ神もいないー。ただ仏教と禅は男と女よりも同じであり性自認による男と女の様にまったく同一なのである。


〇存在と智慧の同一性


世界が物質と精神からできているという二元論元祖の思い込みは、自他の区別と根源が同じで動物が生きて行くための実用的な騙しからきている。※その発展形が実用的な科学であるが哲学としては実在論なので幼稚なものである。※


物質とはまず直観的な表象以外の何物でもないが、知的には一つの物質自体が、精神によって様々に分別されたものであろう。それは言葉と数字によってである※。そこで物質とは精神であり、精神の最上位にあるのが智慧本体であってその下位に知性がある訳だから存在は智慧なのである。ー直観的な表象も分別された物質もこころであろうー


※厳密に言えば物質には、そのある現実感、実在感が下等な動物の時代から本能として与えられていると考える事ができる。それが実用的な騙しという意味である。それが実在論が原始的な哲学として違和感なく受け入れられる理由であろう。理性は本能の延長であり同じものである(米。  何かしら証明のない哲学は哲学とは言えないのだから、哲学は科学に置き換わっていって細々とつまらん事をやっていたり、くだらん主張が大手を振っているのも無理のない事である。


(米
理性や概念性の哲学に対するものがあればそれは感性の哲学だろう。


感性以外の概念性の精神能力ー本能、欲望、意志、感情、理性(知性)ーは個から出ていてるが感性はそうではなく、例えば悪の起源がエゴで善の起源が感性なのは明らかである。


ショーペンハウアーの言う意志の否定は感性によって行われると考えればさほど難しい事ではない。人間の精神性が単純な事は殆ど魚類と同じであり、それに比べて地球に元素が90幾つある事は、比べようもない塾雑さだろう。


ここで概念性(エゴ)と感性は対立、或は否定し合うものではなくどちらも当然必要であるということである。つまり概念性が主であって感性が従であるのでなく、感性が主で概念性が従であるべきだという主張である。


ショーペンハウアーに於いても意志の否定はその制限とでもいうべきものであり、否定し去ることはできないとされている。その意志の制限が自律的に行われるのは感性によるというのがこの主張である。


?㋑どのように(帰納)ー上述


?㋺なぜ(第0の原因)ー宇宙の本質が人間にとって感性なのはなぜか或はなぜ感性があるのか??


A、偶然ー個が生きる為の全への配慮 


B、目的ー宇宙が生物を作り出した目的が仏性もしくは神性にあった
 ●概念性の精神に邪魔されない感性そのものが仏性である。感性そのものがエゴを通して垣     間見られた時、一般的に愛とか同情とか共感、霊性、聖霊の働きとか智慧とか称する



◉上記の問題意識の出所


仏教哲学は涅槃を根拠とした宇宙の科学的な証明であるがーつまり物質が心なので宇宙が一元的に説明されると言う事だがー客観的認知がされないのはその科学が一般的ではないからである。


仏教哲学の真理の根拠とされる涅槃は個人の体験であるが、その体験の不思議が実在論の幼稚さを証明している。というのは宇宙や世界は心によって根本的に変化するのであり、宇宙や世界がこころによって根本的に変化するなら宇宙は物質とは言えないだろう。


涅槃は完全な智慧と言ってよく、完全な涅槃は万人のものではないが、智慧は万人のものであり涅槃も万人に理解はできるのである。


この智慧の分析が今回の主題である。


◉この主題を説明するに当たっての重要な言葉の定義


言葉の定義はその意味をはっきりさせる為に行うが、以下の一つの隠された神秘と実際の直観と記憶の直観とである。


〇存在ー物質自体のこと


〇実在ー現在起きている物質現象、事象の事で、物質現象や生命の現象と社会現象のこと。存在が直観的に認識されたもの


〇真実ー記録された実在のことで、文化や記憶として残っている


※直観は五感で認識されるものとそれの認識形式で、概念は概念的に動物や人間に備わっているものとそれによって認識されるもの。
※真理は命題が真と言う事で、主語についての述語が、概念の中の言葉が正しい事である。


これだけである。
※直観と概念という区別と、⑴存在と、、②実在と③真実という直観、、真理という概念とである。


◉◉智慧の分析


智慧は直観と概念の二種でできている。


〇智慧の直観


直観とは実在ー認識された現在の物質自体のその現象と、真実ー記録された実在とである。つまり五感に映る世界とそれを成り立たせる直観形式、、とその記憶である。


〇智慧の概念


広い意味では動物に与えられた能動的な能力だが狭い意味では言葉の無限の可能性である。


この直観と概念の組み合わせが智慧である。


◎智慧の直観の世界の分析


〇智慧の直観の実在


直観の実在は今現在、五感に映っている世界である。そして直観なのだから概念は一切排除されていなければならない。ところでこの世界は、皮膚の触覚、目の網膜、耳の鼓膜、鼻や舌のセンサーの刺激だけではないのであって、一つの完全な世界を成している。つまりはこれが宇宙であり、宇宙の実在であり直観の実在である。


ではこれの本質は何だろうか?五感の各感覚の快と不快であろう。つまり感性である。これの誤動作が幻覚である。


〇智慧の直観の真実


直観の真実は記憶された実在である。実在は現在であり記憶は過去である。これは個人の精神現象の直観の記憶を主に想定するのだが、それが社会にとってなら文化であろう。動画がライブされてるならそれは実在であり録画なら真実である。過去にあった事象はそれが実際にあったのなら真実であるし、観察された科学の根拠も真実である。実在と真実を区別することはあらゆる現象をはっきりさせるが、それは現象と現象の記憶が区別されるからである。


◎◎智慧の概念の世界の分析


●哲学体系は存在論、認識論、評論でできているが、各部分は常に全体に関係している。存在論では存在が認識論では認識が評論ではそれらからの帰結が思考される。存在は意味ではないので存在とは何かとは考えない。また各存在は認識に格下げされて、存在論はXである1(質量)について思考される※。なぜなら各存在があるなら、そうめんの存在論と冷や麦の存在論は違ってくるからである。よってこのページは認識論の部分だが、また認識のうちでもこの概念の分析が主要である。宇宙全体で最も重大な事はわたしがただ生きて死んで行くことである。わたしが死ぬと宇宙も消滅するかもしれない。だから最も重要な論考は人生論の幸福についてであり、その獲得についてであろう。なのでそれについてここでも記しておくべきである。それは直観の実在ー五感の感性を主にしてあらゆる感性からくるとわたしは思う。そしてこれはすでに与えられている。
※時間と空間は認識である


〇概念と言葉を作り出すもの


言葉が何から生まれたかについては、動物の進化の過程の結果なのだから、原因は動物の認識からと考えるのが自然であろう。その時に動物が何かしらかなりの概念的なものを持っていてー怖い、旨い等をまず差し置いても、高等動物では、かなりの固有名詞的な概念を脳の中に持っていると思う。とすれば言葉とはそれが細分されたものであろう。そして人の言葉の特質は、動物の概念に比べると抽象的な概念を作り出すことであり、それが言葉の無限の可能性であると考えられる。


〇概念認識と感情


概念的な認識を概念認識と命名しよう。感情の起源はおそらく例えば蠅が、逃げるー死の恐怖、食べるー飢えと満腹、性欲ー種族保存の快楽欲求と満足からきているのと、人間の場合も同じだろう。これらはエゴである。ただし人間のエゴは言葉のせいで非常に複雑である。例えば悪魔としてのエゴが、良い結果をもたらす為に、偽善として天使の容貌をしている事もある。


感情がエゴから生じ、複雑な概念認識によって複雑になり、言葉によって凄く複雑になったが、この感情は、下等動物⊂高等動物⊂人間と分類、階層化しているのは明らかである。
※昆虫(対性敵)⊂ねずみ(嫉妬)⊂人(恨み、呪い)。各感情はエゴの中では精神の因果に従っていて必然なので、やる気があれば法則として記述できることだろう。


ある感情が湧くと必然的にその系統の思考が起きる。感情が出てきて何も考えないというのはあり得ないはずである。
●感性によって思考が起きることはないので、感情と感性は全く違うものである。感性は概念認識に属していない。


感情は個ーエゴであり、概念であり、言葉である。よって凡そ、動物にとっては概念の集合、人間にとっては言葉の集合、のその全体作用の部分部分が感情であろう。



〇概念と直感の真実への感性



〇概念認識の世界の無意識と創造性



〇概念の世界の意識



〇概念認識の無意識と意識の帰納と演繹の世界


そこで概念認識の無意識にも帰納と演繹があってその上層にある意識の言葉、文章に現れてくる。


帰納というのは例えば犯罪捜査の複数の状況証拠から犯人の推測をすることであり、演繹とは物証によって犯人を特定することである。


犯人というのは分かっていない事、隠されている事と同じである。


帰納的証明は確実ではないので物証の演繹での証明が求められる。日常的に意識される思考は演繹だし、ただそれは思い込みの誤謬が多いので正しい根拠を添えて吟味される。論文の仕上げと同じである。


しかしよく見てみれば演繹というのはレベルの低い知性である。根拠の判断をのぞけば単なる論理なので創造力の発揮はそこにいくまでの知性だろうと思われる。


無意識の神域で行われているのは帰納であると考えられる。つまり様々な状況証拠があらゆる過去の事象や状況と結びつけられさらにあらゆる可能性も含めてなにかしら創造されている。


一を聞いて十を知るなら一の類似からの十の想起だろうし、十を聞いて一を知るなら十の分析の一への総合だろう。これが意識に現れた時に直感的な閃きと映る。













つづく

嶽きみの世界

嶽きみのいた夏
嶽きみがくれたもの
嶽きみがいれば
また嶽きみに恋してる
嶽きみといつまでも
嶽きみに届け
嶽きみとぼく
嶽きみが好き
嶽きみのとなりで
嶽きみがいるだけで
嶽きみの恋人になったら
空と嶽きみのあいだに
栄冠は嶽きみに輝く
恋を知らない嶽きみへ
嶽きみが好きだと叫びたい
花束を嶽きみへ
嶽きみを忘れない
嶽きみ恋し
また嶽きみと
嶽きみって
嶽きみに会いたくて
嶽きみに贈る歌
嶽きみがすべてさ
もう嶽きみ以外愛せない
嶽きみこそわが命
嶽きみとなら
嶽きみのために生まれてきた
嶽きみだけを
嶽きみは心の妻だから
嶽きみの好きなとこ
誰よりも嶽きみを愛す
大切な嶽きみへ
嶽きみに会いたい
眠れぬ夜は嶽きみのせい
嶽きみがくれたもの
それはやっぱり嶽きみでした