schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

世界は物自体の芸術である

無と永遠は同一概念である。(なぜそうなるかは後に説明される)なぜならば世界は自分の体を含めて観念だからである。


これは宇宙そのもの(物自体)が物質というのは頭の中(精神)で動物的概念として考えられたものなのであり、実在としては内なる時間と空間と五感として感じられるものにすぎないからである。


世界は直観であり自分の体は直接の直観である。直接の直観に与えられている本来の自己の基礎である無なる主観が内的直観である時間と空間と、五感を通して感じている物自体が宇宙である。<世界とは主に視覚(眼識)であり、自分の体はまあ主には触覚(身識)であろう>


この文章を書いているのが精神(の知性)であり、書かせているのは主観であり、この文章が真理であれば、それが直観的真理(主観的真理)である。


世界と精神は客観である。物自体は認識できないので世界は<自分の体を含め>主観にとって物自体のまぎれもない芸術なのである。そして主観も物自体の創造物であり、おそらく物自体は人間や高等動物にとってのみ美しく、微妙で、雄大なものなのだろう。<この美、妙、崇高は感情ではないというのは感情は自我に基づくのであり、美の範疇は普遍的なのだから>


前に完全な観念論としての存在の分析(試論)に取り掛かったが、その存在(者)の最高概念が、主観、直観、精神ということになる。


まだ明瞭ではないが、主観の下位概念としては、時間と空間があり、直観の下位概念として、生物、素粒子、物質などの実在論の自然科学の存在者の分類(たぶん唯識の依他起性の分類)と美の分類(円成実性の分類)、精神の下位概念として、様々な感情の分類などが含まれるだろう(遍計所執性の分類)。<階層の分類は存在するものの概念についてのみ可能なので、ここでの美、感情、或いはこれはどこにいれたらいいか分からないのだが、感覚も存在者であるがたぶん美=感覚だろう>


これは分類が目的というよりはそれから何が明らかになるか導かれるかを目指すのである。が、一つ一つの命題の証明は行われる。というのは命題が真であることが証明なのでこれが直観的真理といえる。これは観念論の科学なのだから、命題は真でなければならず、<命題が真でなければ命題が命題の根拠とはならないので繋がっていかず学問とはならない>命題が真ということは主語についての述語が正しいということであり、科学ということは述語の判断において直観をよく観察するということである。主語は存在者の概念であり、これはあらかじめ分類しておかなければならないのである。


存在の分析とはおそらく存在者の概念の分類と命題の真偽の判断の二つから成り、また分類が上の表記になるのは観念論の実在は物質ではないからである。