schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

カントについて その2

◎雑なカント哲学の概略


●アプリオリな直観とアプリオリな概念から確かな真、善、美の哲学ー当然形而上学ーを体系しようとしたのがカント哲学である。


●独断でない形而上学はアプリオリな概念で構築されなければならないとすることがその基本構想としてある。


●アプリオリな直観と概念は経験が混じってないのでそれぞれ純粋な直観、純粋な概念という。


●善の理性を実践理性批判、美の理性を判断力批判で論じている。


◎雑な純粋理性批判とは何か


●純粋理性批判は、アプリオリな概念の理性ーカントによると高い理念の概念が理性概念でそれ以外が悟性概念ーについての、その限界を論じるという意味である。


●アプリオリである純粋直観、その経験ではない内的な直感が時間と空間である。それは純粋数学の命題の真の根拠である。そこからアプリオリな総合命題の研究が始まった。


●純粋概念とアプリオリな総合命題で純粋理性を論じてみたが、二律背反になってしまった。


◎雑なカント哲学への覚書


●唯物論に対して唯心論、実在論に対して観念論という言葉がある。カントの頃は唯心論と観念論の区別がついていなかった。たぶん唯物論VS唯心論というのが古くからあった。本当に存在しているのは物か心かあるいはどちらが重要かという事なのだろうが、カントあたりから宇宙を物質から認識するのが実在論、心から認識するのが観念論と言うようになったのではないかと思う。


●カントは感性によって受け取った直観が概念である悟性認識によって意味がでてくると考えているようで、感性をセンサーのようなものとしか考えていないようである。概念を高く評価している。<概念の把握は天才的なのだが直観と概念の区別がはっきりしないところがある、勿論新しい考えなので混乱はあっただろう>ところが動物を考えてみればこれが間違いであることがわかる。悟性概念がない動物であってもそれなりの知性があって記憶し判断しコミュニケーションしている。ショーペンハウアーは悟性を動物の知性ー言葉以外の知性ーとして論じている。わたしは感性が人間の霊性、神性、仏性とさえ考えている。


●時間と空間が内的直感というのは時間と空間は認識ということである。ところが自然科学では時間と空間は何かしら実在していると考えるのが普通である。ところで相対性理論ができてから時間や空間が伸びたり縮んだりするということになった。これは内的直感からはどう説明できるだろうか?論理実証主義の数学の論理主義は、おおむねこれへの反対の議論を展開していると考えることができる。数学の命題は総合命題ではなくすべて分析命題であるとか、総合命題と分析命題は実は区別がつかないとかいうアンチテーゼである。詳しいことは分からない。


●時間と空間が内的直感であれば、宇宙がどこまで数学で研究できるかが問題となるだろう。なぜならそうであれば宇宙ー質量や物質ーは数学では規定されていないからである。これは世界ー事象ーが言葉では規定されていないのと似ている。


●純粋な概念やアプリオリな総合命題は、人間を作った宇宙とその人間の知性に何らかの関係があることを現わしているのかもしれない。