schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

カントについて その1

2024年はカント生誕300年の年でそれを考えるとかなり古い人のように思える。その頃はまだニュートンが生きていた。死んだのが1804年でそう聞くと220年前まで生きていたという事でさほど昔でもない気がする。明治元年が1868年である。


カントは自称で天界のコペルニクス転回を認識にさせたと言われ、それは経験の認識ーこれは科学が想定されているーを成り立たせるのにあらかじめ主観のほうに何かしら経験前の認識がある事を証明したからである。


経験の認識がアポステリオリな認識で経験前の認識がアプリオリな認識である。


カントがアプリオリな認識に注目したのは、確かな形而上学を作るのには確かなアプリオリな認識からでなければならないと考えたからである。それは形而上学がそもそも経験に立脚してないので当然であるが、それはまたカントが概念の人であり演繹の人だったからでもある。


カントは人間の概念使用については天才であり、言わば知識について、平凡な哲学者が直線的な思考をし、優秀な哲学者が平面的な思考をするのに比して、立体的な思考をするのである。


それでもってアプリオリな概念の発見のための演繹ー純粋悟性概念の演繹ーをしたのは、カント自身が言っているが「退屈で困難なことだがやらねばならない」と考えたからである。それがカント哲学が難しいと言われる所である。


わたしはこの演繹が正しいか間違っているかは分からないが必要ではなかっただろうと考えている。そしてアプリオリな概念の演繹以外はさほど難しいことを言っている訳ではない。


カントが何を言っているかというのは問題ではない。なぜなら間違いが多いと思われるからである。これはカントが始めた独創が根源的で深いので当然と言えば当然なのだが、だいたい哲学説の大部分は間違いなのである。


その哲学的思考を学ぶために読むべきである。これを自身が、哲学を学ぶことは哲学することを学ぶのだと言ったのである。


カント哲学は総合的には正しく、分析的には間違いが多いと思う。


正しいのは勿論アポステリオリな認識とアプリオリな認識の区別、そしてアプリオリな直観として先験的感性論。それからの時間と空間はアプリオリな直観であるという事と、それから考えられる物質自体は認識できないということ、それと命題のアプリオリな総合判断の研究である。


その他の結論は間違いだろうと思う。しかし学問や哲学は上位の総合が重要なのでー現実に責任重大でなければー個々の結論はどうでもよいのであろう。