schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

2016年11月のブログ記事

  • アメーバの身識

    アメーバは水の中で宇宙を感じていた。 硬い石とさらさらした水と柔らかい有機物の感触が彼の全宇宙だ。 安定した台地と心地よい水の流れとおいしい食べ物が彼を満足させていた。 触覚は存在の確かさを最も確信させる器官である。 目と耳と鼻のない彼は宇宙をありにままに捉えていた。 (食欲を満たされたとき彼の身... 続きをみる

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  • 悟りの真理

    悟りは言葉にできるか?できる。それが悟りの真理である。 しかし、この真理とは命題が真という意味である。(直観をそのまま表す芸術的表現もある) 真理には別に直観の真理というのがある。いわゆる五感の世界の真理である。宇宙の真理とか言われるのは普通これである。 人類が使っている真理はこの二種類があって、... 続きをみる

  • 真理とは何か?

    実在が観念か物質かの研究材料に一番適しているのが自分の体であるからぜひ試してほしい。特に身識の体感である。痛みにはじつに様々なものがある。 この世界と煩悩と悟りをまとめて論じたものが唯識である。ではそれは真理なのだろうか? 真理とは命題が真ということである。学問とは人間の雑多な思考の中から、真なる... 続きをみる

  • 唯識の実験の対象は直接の客観

    唯識というのは世界はただわたしの識(表象)であり、それは眼識、耳識、舌識、鼻識、身識、意識、末那識、阿頼耶識でできており、それらは繋がっていて種子の何等か繋がりとか組み合わせでできているというのかどうかは分からないが、今はそうしておく。 というのはわたしは唯識を論じようとしているのではなく、完全な... 続きをみる

  • 唯識の観察、唯識の実験

    唯識の実験は、「実在は観念か?物質か?」を確かめるものである。 世界は、原子でできているか?種子でできているかということである。 宇宙が実在論的であれば、宇宙は物質(原子)できており、観念論的であれば観念的なもの(種子)でできているだろう。 これは、実在論的科学では宇宙は物質、原子でできているとい... 続きをみる

  • 唯識と表象としての世界の微妙な違い

    それは外界を否定しているかどうかであるが、ショーペンハウアーは外界を否定するのはばかばかしいと明言しているし、唯識では外界を否定している。 わたしはここに疑問を持ったので摂大乗論、唯識三十、二十を読んでみた。が外界が無いと言っている訳ではないので安心した。要するに認識されたものは外界ではないと言っ... 続きをみる

  • 直接の客観

    ショーペンハウアーの哲学において「直接の客観」とは自分の体のことである。 「すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である」から主観は無である。 無が主観として存在しているのである。 主観以外は客観なのだから、直接でない客観は世界であり、直接の客観が自分の体ということである。... 続きをみる

  • 唯識と意志と表象としての世界の共通点

    唯識は「世界はわたしの識である」が基本となる命題。意志と表象としての世界は、「世界はわたしの表象である」と「世界はわたしの意志である」だ。 世界の意志の方は、カント哲学で認識できないとされる物自体の話なので、まったくの形而上学であり、本当かどうか疑問のあるところだ。ただ輪廻あるいはカルマを世界意志... 続きをみる

  • ショーペンハウアーは悟っていたか?

    「意志と表象としての世界」の最後の版で、ショーペンハウアーは大乗の般若波羅蜜に言及している。当時のヨーロッパではまだ大乗仏教が一般的でなかったのだから、仏教を熱心に研究していたことがわかる。 悟りといっても現実にはレベルがあって、完全な悟りは自我が消滅して感情がなくなり知性が純粋的になった状態であ... 続きをみる

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  • 西洋哲学と仏教哲学のこれから

    人間の理解においては、西洋哲学よりも仏教哲学のほうがはるかに深い。 ただ科学が生まれたように、西洋哲学は緻密である。 これは仏教哲学が観念論的であるのに対して、西洋哲学は実在論的であるからだ。 世界の(実在が)観念的であった場合、世界の探求自体が人間の探求となる。 仏教哲学を西洋哲学で解釈しようと... 続きをみる

  • 意志と表象としての世界の第2節

    意志と表象としての世界の第一節で、「世界はわたしの表象である」の説明があったあと 第2節はこう始まる。 すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である。 この主観の定義がショーペンハウアー哲学の最初の洞察である。