2016年11月のブログ記事
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唯識というのは世界はただわたしの識(表象)であり、それは眼識、耳識、舌識、鼻識、身識、意識、末那識、阿頼耶識でできており、それらは繋がっていて種子の何等か繋がりとか組み合わせでできているというのかどうかは分からないが、今はそうしておく。 というのはわたしは唯識を論じようとしているのではなく、完全な... 続きをみる
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唯識の実験は、「実在は観念か?物質か?」を確かめるものである。 世界は、原子でできているか?種子でできているかということである。 宇宙が実在論的であれば、宇宙は物質(原子)できており、観念論的であれば観念的なもの(種子)でできているだろう。 これは、実在論的科学では宇宙は物質、原子でできているとい... 続きをみる
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それは外界を否定しているかどうかであるが、ショーペンハウアーは外界を否定するのはばかばかしいと明言しているし、唯識では外界を否定している。 わたしはここに疑問を持ったので摂大乗論、唯識三十、二十を読んでみた。が外界が無いと言っている訳ではないので安心した。要するに認識されたものは外界ではないと言っ... 続きをみる
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唯識は「世界はわたしの識である」が基本となる命題。意志と表象としての世界は、「世界はわたしの表象である」と「世界はわたしの意志である」だ。 世界の意志の方は、カント哲学で認識できないとされる物自体の話なので、まったくの形而上学であり、本当かどうか疑問のあるところだ。ただ輪廻あるいはカルマを世界意志... 続きをみる
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「意志と表象としての世界」の最後の版で、ショーペンハウアーは大乗の般若波羅蜜に言及している。当時のヨーロッパではまだ大乗仏教が一般的でなかったのだから、仏教を熱心に研究していたことがわかる。 悟りといっても現実にはレベルがあって、完全な悟りは自我が消滅して感情がなくなり知性が純粋的になった状態であ... 続きをみる
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人間の理解においては、西洋哲学よりも仏教哲学のほうがはるかに深い。 ただ科学が生まれたように、西洋哲学は緻密である。 これは仏教哲学が観念論的であるのに対して、西洋哲学は実在論的であるからだ。 世界の(実在が)観念的であった場合、世界の探求自体が人間の探求となる。 仏教哲学を西洋哲学で解釈しようと... 続きをみる
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意志と表象としての世界の第一節で、「世界はわたしの表象である」の説明があったあと 第2節はこう始まる。 すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である。 この主観の定義がショーペンハウアー哲学の最初の洞察である。