schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

意思の自由について

意思の自由などというものが無いというのは確かなことで、


これは人間に個性などというものが無いというのと同じことである。


それは人間や動物の動因が因果に支配されているということからくるのだが


これは物質の意志には物理法則があるだけで自由が無いというのと同じことなのだ。


だだ物質や生物の因果と精神の因果は多少違っており


生物の動因にはある種の自由度があってそれが自由があるように見えるのだ。


腹が減って食べないでいる自由や喉が渇いて飲まないでいる自由


などはほとんどなくただご飯を食べるかパンを食べるか水を飲むかお茶を飲むか


という自由度があるのでありそれが自由があるように見えるのである。


おそらく分からないだろうが人間の営みというのはすべてそうである。


西部邁さんが死んだが自殺もそうであり、ある状況下では高尚な人間に自殺は必然であって、卑しい人間ほど死を恐怖し醜い死を選択する。


勿論醜い自殺というのもあり、醜いのも高尚なのも同じようなものであるという平等もあるだろう。しかし差別(しゃべつ)もあるのだ。


人間の個性というのも猫や犬や鳥の個性とまったく同じであり自然が人間に与えてくれるものである。


人は精神が複雑なので他の動物よりも自由度も広いように見える。


人間のしつけや教育、教養や経験や宗教(動因の改善)によるのも個性などというものではなくその精神の自由度の範囲の個性度である。


自我の上の個性の追求は現代を見れば分かるように苦悩を増やし卑しい人間が増えるだけである。


それで成功している人もいるように思うだろうが、もしその人がもっと自然なやり方をしていたらもっと素晴らしいことができただろうと思う。



ひょっとしたらこの自由度というのもまったくあり得ず、人間の精神や社会も必然であり、人間の個人の精神の改善だけが可能というだけなのかもしれない。