schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

釈尊と同じ悟りを開くためにおおよそ何時間の坐禅が必要か?

わたしは若いころから禅や仏教に興味を持っていたが熱心な修行者だった訳ではない。
それだけでも進歩はしていくのだが、


今は熱心に坐禅をしているが怠け者だった昔を振り返り今とからめてちょっと普通と違う視点から坐禅について書いてみると。


禅とか仏教あるいは宗教一般といってもいいのだが、これは自分を本来の自己に気づいて改善させて行き最終的に涅槃へ至ることと考えられる。


最終的に涅槃に至ると言ってもそれで終わりではなくそこから真の人生が始まるともいえる。これを釈迦も達磨も修行中という。


本来の自己に気づくだけなら本を読んだり話を聞いただけでも分かるし、ただしあるじみじみとそこに一定時間身を置くことでそれは確かなものになるのだから、ここで祈りや瞑想或いは坐禅が或いは信仰生活がこれらは行であるが有効なものとなる。これは人生において失敗しつつも誠実に生きて様々な経験をつむことで人間ができてくるというのと同じものである。この気づきというのはすぐにでも可能であり、これを知恵と言ってもいいし神の聖霊の働きといってもいいし人生における何か真なるものに気づくと言ってもよい。


仏教や禅においては涅槃に至るのが最終目的でありまたそれからが本当の人生の始まりであるからもしこれを求めるのならば坐禅は不可欠と考えるべきである。ほかの方法でも不可能ではないのだが、坐禅はこれに至る最短の方法であると言える。


そこでこれからが書きたいことなのだが、まあおおよそな話ではあるが何時間くらい坐禅をすると釈尊と同じ悟りを開けるかという話である。正しく何時間か坐禅をすれば誰でも
釈尊と同じ悟りを開けるのであり、そうでないのは真面目に坐禅をしないからと言える。才能は関係ないが真面目に坐禅ができるかどうかが才能と言えばいえるのかも知れない。


話を分かりやすくするためにいうのだがこれはおおよそ3000時間~4000時間ぐらいだろうと思う。一日一時間の坐禅で10年。10時間だと1年である。おおよそこんなものだろうと思う。知恵に気づくのはすぐ可能だが釈尊の悟りとは精神がすっかり改善されるのだから時間が必要なのである。そしてその過程でも個人個人で様々なことがあるのだろう。


ただし正しく行った場合である。もちろん生活の中で坐禅をしていくのだから上手な気分転換は必要でありその工夫も必要なのは普通の人生と同じである。