schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

ブッダの行方 番外編 坐禅について

坐禅によって、心が落ち着いたり、さっき起きてしまった不快な事が、すぐ忘れられるようになるだけなら、それは心の変化であり、何の不思議もない。


不思議なのは、坐禅の継続によって、世界のその物質現象が、変化してしまうということである。


これは世界、その実在が、物質現象ではなく、観念的なものである事を、証明していると考えられる。


世界の実在で一番身近なのは、直接な物質現象である、自分の体である。他の物質は、自分の外にあるので、あるらしい事しか分からず、好きな女だって本当にいるかどうかは分からないのである。
※世界の実在というのは、存在する物質自体あるいは物自体が、認識されて、露わになっているものと定義して良いだろう。その世界を宇宙と言っても良いのだが、そこまで言ってしまうと実在からはるかに離れて数の空想で、億光年とかで世界の果てまで行ってしまうので、世界の実在=自分の体にするのである。


坐禅とは、身を整え、心を整え、呼吸を整える事と言われている。このブログは、宗教の話ができるような、真面目が書いているのではないので、坐禅において、身を整え、心を整え、呼吸を整えると言うのは、何事なのだろうと考えてみる。


祈りや瞑想はどんな宗教にもあるが、動物の行為という観点からは、坐禅と言うのはおかしな行為にも思える。ただ人間は神経質な動物であり、それゆえに色々な複雑な行為ができると思われ、動物とはまるで違う行為もするとも考えられる。


坐禅において、身を整え、心を整え、呼吸を整える。というのはただ坐禅をするという事を言ってるのであろうが、呼吸を整えるというのは分かるが、心を整えるとなると分かりにくくなり、身を整えるというのはもっと分かりにくくなるように思われる。


そこでまず心と体とは具体的には何なのか考えて見る。そういうブログなもんで。