schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

意志と表象としての世界とは何か その二

アプリオリな認識はわれわれの経験はそれによってなされるということであり、それに
ついて多くの思索がされている。


カントが偉大なのはそれを始めたことと、世界をそれによって洞察したことであり、先駆者に個々の間違いはあって当然である。


アプリオリな認識には、直観についてと概念についてがあって、概念については一つの文章に多くのアプリオリな総合命題があることを指摘している。


アプリオリな総合命題というのは科学の経験的な(アポステリオリ)な総合命題に対するもので、これは科学の命題は経験的な総合命題であらねばならないのだがそれだけではないということである。


命題というのは主語に対する述語の判断であり、アプリオリな総合命題を総合判断という。対して分析判断というのは主語に述語の判断が含まれていることであり、それでは何ら新しい知識が加わらない。つまり知識が増えるということは総合命題が増えるということである。


アプリオリな直観として、時間と空間、純粋幾何学、アプリオリな概念として純粋物理の命題や、数、因果律などのカテゴリーが指摘されている。ショーペンハウアーは因果律は直観としている。


これは世界や宇宙がそう有るのは人間の認識によって規定されているということであり、当然人間に規定されてない世界や宇宙があるはずであり、それを物自体と呼んだ。時間や空間が人間側にある以上、宇宙は何らかの物質のようなものでしかないからである。そして人間はそれを認識することはできないのである。