schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

精神改造の因果について その一 悟りの原因は意志の否定ではない

ショーペンハウアーの価値はその著作を読むことにあるのだが、彼の哲学のまとめたものはやはり「意志と表象としての世界」でありその前として「根拠律の四つの根について」でありその後ろとして「意志と表象としての世界 続編」であろう。


「意志と表象としての世界」は四つの考察に別れ、最初の二つは「表象としてのこの世界」と「意志としてのこの世界」の基本の考察である。後の二つはその表象と意志についての応用の考察であり、表象の応用については主には芸術のはなしであり、意志の応用については主に道徳、宗教のはなしである。


わたしがショーペンハウアーを高く評価するのは特に「表象としての世界」でありこれはほとんど無謬であると考えられるが、「意志としての世界」についてはその人間性の回復としての悟りの原因が、「意志の否定」ということについては間違っていると思う。


<なぜ意志の否定ではだめなのか>


意志の否定も意志であるならば、その意志も否定しなければならないだろう。そしてその意志も否定しなければならず、いつまでも循環していくだろう。


<しかし最初は否定から入るのだろう>


ある罪を犯したものがもっとより良い人間になりたいと思うとしよう。人間に改善の可能性があるのならばその罪を犯した人間性を肯定していては改善されるとは考えられない。しかしその罪を犯した人間性を否定するならば改善されて行くだろうとは常識的に考えられる。反省、懺悔などはこのたぐいであろう。しかし反省や懺悔というのは一つの意志ではないかとも考えられる。


<反省に潜む人間性の改善の因果の力について>


これは自分の主観と考えられる。主観は無であり、無の知恵である。世界や自分をそのまま認識して否定も肯定もしない知恵である。自分という存在は(これは観念的に全世界でもあるがというのは実在というのは=自分の五感の直観であるしあとは実在していない記憶と想像と創造の精神の世界だからである)三つの存在者でできていると考えられ、これが観念論の三つの最高概念であるがそれが主観、直観、精神であり、主観とはのこの主観である。そして意志の否定や肯定というのは精神なのである。自分の肉体は直接の客観あるいは直観(=世界)である。そして主観は無であるから直観(世界)や精神を直観的に認識する。自分を変えるということは自分の精神を変えるということであるが、その力は直観(世界)や精神にはあり得ず(努力は無駄である)主観にしかないのである。


そもそも存在論の存在者の概念の対象は必ず実在していなければならない。なぜならば存在していない存在者というのは形容矛盾だからである。


(であるから神という存在者が存在し自分の外に存在していて救済者であるのならばどんな因果で救済するのか説明することができるだろう。これを現在矛盾なく説明できるのは神という救済者は内なる神でありそれは主観と同一概念であるということである。そして内なる神と主観が同一であるならば内なる神というのは直接な概念ではないのだから(二つの概念でできている)主観をとるべきであり少なくとも哲学上では神という概念は必要ないのである)


<芸術について>


芸術(美の類)は自分を無にしたときに写る世界の真相でありそのとき主観が自分の人間性を回復させるのである。