schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

当たり前の同一律と矛盾律と排中律

1986年にパソコン通信が始まってPCVANとNIFTYができた。


1987年PCVANでそれまでわいわい仲良くやっていた所でなんだか忘れたが議論がおきて騒然となり混乱して収集がつかなくなった。


そこでパソコン通信で議論が可能かどうか議論が起きて議論派と仲良し派で議論になった。


議論するなといっても議論がおさまる訳もなく仲良くせよと言っても仲良くできる訳もない。その後議論に特化したのが電子掲示板だったと思う。


パソコン通信が終わってインターネットになった時もう議論する場所はなくなるのだなと思い寂しかった。



しかし不便にもかかわらずインターネットでは熱心に議論がされていてそこには重箱派と重箱の隅を突っつく派がいる。



<同一律>


(世界は重箱のようなものである。a=b)


重箱派は世界全体を眺めている。


重箱を突っつく派は世界の隅を眺めている。



<矛盾律>


重箱の隅がない重箱は無い。


世界の隅がない世界は存在しない。


世界の隅を眺めていない世界全体を眺めている人は存在しない。


世界全体を眺めている世界の隅だけを眺めている人は存在しない。



<排中律>


あらゆる人は重箱を眺めている人か重箱の隅を眺めている人である。


あらゆる人は世界全体を眺めている人か世界の隅だけを眺めている人である。



我々が考えたり議論したりするとき 新しい知識が加わることを除けば 常に同一律、矛盾律、排中律を使っている。


なぜこれだけで理解が深まるのかといえば 自分を含めて存在するものは実に単純なのだが 自分の精神が訳もなく複雑に見えるのでただ整理したらスッキリしたというだけに思える。