schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

なぜわたしは、いつも何か考えているのか?その1

これを客観的にすれば、なぜ人間はいつも何か考えているのか?になる。


これはいつもわたしの疑問だった。子供の時からの趣味だった天体観測のとき、思考が本当に邪魔だった。その後これが坐禅のときの主要な問題と気づいた。


これはかの近代西洋哲学の創始者であるデカルトの出発点だった。彼と彼の後継者はこれを深めることができなかった。当たり前としたのである。


仏教、唯識のテーマはもっと深い。何も考えないという人間が存在するからである。


タイトルをもっと正確に表現すると、気がつくと


主観がなぜいつも、精神に与えられてくる文章を意識させられるのか?


になる。なぜいまこの言葉が与えられてくるのか?


何事にも理由があるはずである。