schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

精神の因果について

科学の研究の方法には原因論的と形態論的がある。


自然科学の原因論的は物質現象の原因の探求である。形態的は生物、物質の分類、帰納的分析などである。


社会科学にもこの原因的と形態的があり社会現象の形態とその原因の探求とである。


人文科学についてもこれがあるはずだが形態論がほとんどであって原因の探求は少ない。
人文科学の原因論とは人間の精神の因果がどのようになっているかを研究するのでありこれを精神の原因論的研究というのである。


精神が因果なのはそれが変化しているということではっきりしている。因果でなけれは変化しないだろうコンピュータの記憶のように。


精神の因果が物質の因果と違っているのはその上に記憶がのっかっていることであるがその最上層に言葉があってそればかりが意識される。


それから分かりやすいのが感情である。その他に普通は意識されない概念の記憶、経験された五感の記憶、感情の記憶、感性の記憶、人類史の記憶、生物史の記憶などがあるだろう。


知性も感情や意識、無意識もそのものは因果ではないが因果として変化していると考えられる。感性的な印象は変化しないので因果ではない。


ここで物質の因果と精神の因果がどう違うのかと言えば精神の因果は記憶や意識を作り出しているものの因果ということでありその記憶は実在はしていない。夢が実在してないのと同じである。


精神の因果とは記憶や意識の因果ではない。なぜなら記憶や意識はそのものだけを見れば因果ではないからである。精神の因果とは記憶や意識を成り立たせているところのものの因果である。


この精神は因果であるから因果を上手に使うと何かしら人間の精神が根本的に改善されていくだろう。これが宗教であり、釈尊の四諦とはこれである。



【注】観念論的学の存在者の最高概念は、主観、直観、精神であり上記はこの精神の話である。


補記1)精神の改善は人生に悩みが多い以上、誰でもやっていることである。気晴らし、睡眠、旅行、社交、スポーツ、飲酒、嗜好、娯楽などである。すなわち忘却であり世間的なあるいは経験的な知恵である。


補記2)精神的苦悩は全体としては感情であり、知性としてはその苦悩の自己認識である。


補記3)感情も知性も因果でできた記憶であり、因果であるがゆえに克服は知性や感性や意志では無理だが、因果的な方法で改善もしくは消滅させることができる。その改善させる力は主観にある。そして感性は主観から来る。


補記4)精神は意志、感情、知性、記憶として現れているが、その下層に無意識その下層に因果的なものがあると思われる。その下に無が存在している。これが主観である。


補記5)主観による直観(事物もしくは五感)や精神の感性による印象をわたしは情緒と言っているが文字を含めた情緒の追及が芸術である。


補記6)因果的なものがどうなっているかは想像であるが因果法則で動いている単純ではない複合体の延々と続いている夢のようなものではないかと思う。


補記7)これを因果的にコントロールするのは、重力や、原子や、原子核や、素粒子について何も知らないのにその因果法則を利用して発電したり、ロケットを飛ばしたり、スマホを使ったりするのと同じである。


補記8)自然科学というのはその対象の科学であり、社会科学というのはその対象の科学であり、人文科学というのはその対象の科学である。これらは主観にとっての客観なのだから哲学というのは主観の研究ということになるだろう。芸術は主観の感性的探究であり宗教とは主観の実践であろう。