なぜわたしは考えざるを得ないのか? その3 結論
わたしはどうしようもない苦しみの中で生きている。
それでも正常を保っているが異常になってしまうとどうしようもない。
強烈な生きる本能を一瞬で遮断してしまう自殺への願望が意思となって渦巻始める。
それは精神の存在そのものが苦しみだからだ。
それは業と言っても煩悩と言っても原罪と言ってもよい。
その永遠に続く時間とともに、一時の救いを与えてくれるのは、
欲望を満たす快感と垣間見えてくる真の直観の世界だ。
その苦しみの存在、精神から流れてくる思考。
大方はとんでもないとち狂いの言葉と文章。
(その中でわずかばかりの正しい言葉。それがすっきりとする直観的真理なのだ)
その自己主張は平穏な生活を望む道徳でもって抑えられているが、
さも正しそうに修飾された嘘となって暴れている。
自分の意にならない思考はそのような苦しみの精神から与えられてくる悲鳴や訴えなのだ。
そしてその訴えにはそうでなければならない原因が必ずある。(ここで存在が言葉になっている)だが否定してしまったり、自分の都合の良いように解釈してしまう。
ではなぜそれが意識されるのか?
それは無なる主観が見ているからである。
私は努力して正気を保っている。それをやっているのは理性ではなく無なる主観なのだ。
そんな苦しんでいる精神の正気を保ち、癒し、また真と美と善の創造の力が主観なのだ。
これがわたしのテーマである。
<これは個の精神のみをとりだしたのだが、人は実際の社会生活の中でこれを意識しないで、直観の中で主観をうまく使い精神をコントロールしながら生きている。これをうまくやっている人が成功している人とだいたい言えるのだろう。これを無心の生活と言って日本人は実践してきた。>
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