schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

存在しているもの

存在しているものが、


1)物質、生物、肉体、主体、客体、自分、他者、各名詞、各固有名詞


などという言葉の、対象である物質的なものであるとしようが、


2)五識(感覚による対象)、感情、概念


などの観念的なものであると言おうが、


どちらにも必然性はなく、一旦は単なる思い込みと考えるべきであろう。


常識的には、存在しているものは物質ということになるのだろうが、五感による感性的な
ものがなぜすぐに物質となるのだろうか?


この直接認識される感性的なものが、即座に物質が実在すると認識されるのは、これは動物や赤ちゃんでもそうなのだと思うが、ある種の仕掛けがあるはずだろうと思う。


物質のその実在感は実は実在ではなく概念的なものであるという逆説もあり得るだろう。
これは物質の実在感は観念的なものかもしれないということである。


わたしは物質で直接認識できるのは2)の五識だけであろうと思っている。


そしてそれは網膜の像などというただの第一の刺激だけではないのであって、五つの感覚が宇宙そのものやそれが作った脳と直接に深く巧妙につながっている実在と考えるのである。それを「実在感性」とでも言えるだろう。その本質はただただ単に感性的な印象ではないかと思う。生命の意味、価値とはこれであろう。空とも言う。


1)は2)の概念やその全体としては感情という頭の中だけの虚構、想像されただけのものに過ぎないだろうと考えたほうがはっきりする。
(物質という言葉が概念ということでなく、その実在感が概念的なものからくるという意味である。というのは感性からは物質が実在するという認識は来ないし、またこれは生得なものとも考えられない。アプリオリな認識でありかつ直観ではない)



<物質はといえば存在しているのだが直接認識できない。その真実は永遠に未知であろう。すなわち物質とは直接にはただ感性であり、間接的に概念や知性によって認識される。だから自然科学はいつまでも完成しないのである>


<自分の体は最も身近な人体という直接の宇宙である。これは感覚でしかないので物質ではない。物質としては認識できない。自分の体が何であるかは直接にはどのようにしても分からない。自分の体は実在としては自分の内なる触覚、体感であって、鏡や写真の自分、或いは顔以外の目に映る自分は目で外から又感覚の記憶を含めて、オナニーなどの自分の手で触れる自分は触覚によって外から認識している。オルガスムは体感である。これは宇宙全部がそうである。宇宙というのは主には視覚、触ることができれば外なる触覚である。であるから人間にとって最も重要な感覚は触覚であり次は視覚ということになるだろう>


<動物の意志や本能も概念に分類されるのではないかと思っている。むしろ人間の言葉自体が原初概念に起源があるのではないかと思う。なぜかというと概念の類は生得ではなくあらかじめ生物に植え付けられている精神的分別と考えるからである。自律神経は刺激に対する反応であるから精神的な意志や本能ではないだろう、物質的な意志とは言えるだろうが>