schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

祈りとは何か?信仰とは何か?教信行証について

祈りや念ずるというのは主観の宗教的知恵の発動であり緩い瞑想である。瞑想は行であり緩いというのは時間的に短いからである。


信仰というのはこれとは全く別物でというのは行ではないからだが、自分を救ってくれる存在者が存在することが証明されてはいないけれど信じてみるということである。<この存在者が無なる主観であれば、まったく必要ない概念ではあるが慣用としてそれが内なる神とは言える訳である>


信仰をもって色々生きてみるいうことになればそれは行とは言えるが、信仰自体には何の効果もない。これは信も同じである。信仰はただの行を指示する記号である。


なぜならば行でなければ無なる主観という宗教的知恵の力によって精神という存在の因果は変化しないからである。


ここで瞑想と坐禅の違いについて考えてみたい。これは違いがあると言えばあるしないといえばないのだが、瞑想は外なる救いの対象へと客観へと精神を向ける傾向があるように思える。


対して坐禅は無なる主観に集中することである。実在するのは無なる主観のみなのだから、どちらが効果が深いかは明らかである。瞑想は対象が曖昧なのである。


信仰に対して信というのがある。信というのは釈尊自らが説かれたのだがこれは説かれた言葉を信ずるのである。


涅槃について説かれた言葉はそれを聞いたばかりの人にとっては疑問でもある訳だから信じるということがなければ継続していかない。


禅ではこの疑問を疑と言い「大悟の裏に大疑あり」と言って大いに疑えというがこの疑いはそのまま信なのである。大きな疑いほど力があり実際にはその下にその分大きな信があるはずなのだから。<疑という状態は実際は涅槃と涅槃に至る前とのずれのことである>


仏教は教、信、行、証である。教とは涅槃の教え、信とはその教えを信ずること、行とは坐禅とそれに基づく活動、証とは精神の存在の因果的な改善、精神が無なる主観によって飲み込まれていくことそして涅槃に至ることである。




<信仰の対象は無なる主観(実法)、信の対象は言葉(教法)である。ただこの信仰や信が精神現象にとってどういうものなのか?実際に在り得るのかというのは疑わしい面がある。現在の人類には存在しない言葉による精神の負債の文化の空回りが極めて多い。それがあらゆる矛盾や混乱を作り出しているように思える。文明が複雑になるにつれますます顕著である。これは要するに嘘である。嘘とわかってついている嘘。だまされてついてしまっている嘘。これは世界が個に現れてしまわなければならなかった、過去に動物に精神というものが現れてしまったころからの騙しのしかけである素朴実在とその延長である実在論の影響なのだから、人間の文化が「主観と客観が同一であるこの世の現実である観念論」に変化していくことによって改善されるということが大いに期待できるとわたしは思う>