schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

存在の三つの最高概念から偽りを考えてみる

観念論の存在の三つの最高概念とは、存在するものでこれの上位はないと考えられる三つのものの概念で、主観、直観、精神である。


主観は存在する無であり、直観は宇宙や世界で、Xである物自体が五感と内的直観である時間と空間を通して認識されている。直接の直観が自分の体である。精神とは自我や言葉のことである。


主観は無なので偽ることはあり得ない。主観の本質は主観に映る直観の現れである美と妙であり、これが世界の実在である。


直観も無なので偽ることはあり得ない。その本質は主観に映る美と妙である。だが直観が有のとき偽ることがまれにあるように見える。これが仮象である。枯れ草が幽霊に見えたり、縄が蛇に見えたりするが、正常な人間は主観によって正常を保つ。異常になると幻覚、幻聴などを体験する。これは精神が引き起こすと考えられる。直観が無のとき主観と直観は同一である。


精神は有であり記憶だが殆どが偽りである。その本質は感情である。これは自我が引き起こすものだが、世界が個体として現れざるを得なかったゆえのものであり、もちろん動物にも自我があり高等生物になるほどそれが激しくなる。この原始的なものが本能、欲望と考えられる。<欲望が叶えられるのが快感で叶えられれないのは苦しみである>


精神の最高のものが知性である。知性は殆どが偽りであり、これは命題が偽ということであり嘘と言われる誤謬である。知性の偽りが問題となるのはそれが正しいと思ってしまう場合である。真なる言葉は真なる命題である真理であるが、真理の裏には主観や直観が働いている。知性が因果に現れるのを意思というが偽りの意思が作り出しているのが人生の苦しみである。


無なる知性が真理であり無なる意思が善である。無なる直観が美と呼ばれる。妙というのはこの美で直観が自分の体に関係するときのことが多いと思う。これらが幸福の根拠だとと思われる。


<おそらくロボットには主観と直観の本質である美と妙、精神と肉体の苦しみがない>