schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

クリスマスにブッタを想う

女と男の類似と、相違=差異から、それぞれの本質や真実を見つけることができるかもしれないー私は女がわからないー


そのようにキリストと仏陀、キリスト教と仏教のその類似と相違からそれぞれの本質や真実を見つける事ができるかもしれないが、これは今回ではない。


宗教がイコール涅槃でないなら仏教は宗教ではないし、そうであればこそ仏教は宗教である。又、宗教が信仰なら仏教は宗教ではない。ただ宗教という単語は仏教の事であり神道はそうは言わなかった。これは儒教以上というのを含んでいるが、人間についての根本的な教えと言うほどの意味である。


「赤子のようにならなければ天国に行けない」というのが、文字どおり実在的な天国だけなのか観念的=心的な天国も含むのかは分からないが、仏教では浄土というのははっきり決まっている訳ではないとしても観念的なものである。


<西洋には異端だが無なる神という概念はあって、内なる神という概念はないらしいが、無なる神と内なる神は同じだろう。なぜなら一神教なのだから?無なる神によって世界は現在創造され続けており、内なる神によって人は救われ続けているのかもしれない>


※観念的ー内的でない宗教はないと考えられる。なぜならそれは、自分の外に居てる神が、自分の肉体を死後の天国へ導く救いを含め、自分の心を救うことであろう。自分の外の神が自分の心をどんな方法で救うのかは不明なのだが、とにかく宗教とは自分の心を救う事だからである。どんな場合でも習慣的にも奇跡を除けば肉体を救うためにあるとは言わないだろう。


※仏教での外なる仏と内なる仏はどうだろうか?仏教徒は仏像を拝む場合でも仏像は象徴であり実の仏だとは普通に思っていないだろう。仏とは何かしら自分であり万物でありその良き関係であると思っているのではないだろうか?ー外なる仏と内なる仏は同じで主客同一的であろうー



「赤子のようになる」というのは知識を捨てるという事であり学ぶ事の逆だし、涅槃というのもまったく同じである。仏教は捨てる事であり学ぶ事ではない。だから仏教学や仏教哲学は仏教と種類がまるで違うというのから、宗教と学問がまるで違うことが分かる。


そこで


赤子のように成ることが涅槃になる事だが、これは赤子のような感性純粋、知性馬鹿になることではないのだから、そこには何か個の実在的な変化があるに過ぎないということが分かる。


変化が何によって起きるかと言えば智慧によってだろう。これは分かっている人は誰でも分かっているが、これがなぜ起き得るのかは誰も分からない。これが総合としての哲学のすべてであり哲学の頂点としか考えられないが、それはなぜ宇宙が自分になってしまうのかがこれだからであり、つまりは宇宙と自分の存在の謎がこれだからであると想う。


前書きが長い。


上記は分からない事なので主題というのは、この変化がどのように経過して行くか?という事である。


つづく