schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

アナログとデジタルから見た世界

宇宙はアナログかデジタルかと考えるとよく分からなくなってしまう。


物質が原子からできていて、質量が量子からできているなら宇宙はデジタルという事になろう。


ただこれらに時空の働きを含めたものが宇宙なら必ずしもデジタルではないだろう。
時間はデジタルっぽく空間はアナログっぽいのような気もする。


一方人の認識の方であるが、数字や言葉はデジタルだろう。


五感はアナログだろうと思われるが、ここでまた疑問が出てきて光は八色だとか、視覚は毛様体の細胞の集まりとかとも考えられ、複眼と単眼の区別がなくなる。


音は波長であり、臭いや味は高分子や分子とかいう考えも出てくる一方、う〇この臭いは嗅ぐ方によると考えられる。臭さが分子とは関係ないし、犬と人でも臭さの強弱ではなく質が違うと思われる。ふんころがしの幼虫の事を考えて見ればわかるだろう。ひょっとすると同じ種例えばヒトでさえも嗅ぎ分けるのかもしれない。


人の視覚の色は八種類の複合なのもこれは人だからそうなので動物によって違うし、青や赤の電磁波の波長が感覚として青や赤である必然もない。ただそうなっているだけである。人によってさえ違うのは色もうを考えれば分かる。



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~~後で補完~~~~~~~
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ここで時間が無いので仮説として結論めいたものを書いてみよう。


宇宙は質量や物質でできているが、それを人が認識しなければ何も分からない。宇宙自体が石ころと同じで何も分かっていないので、人がいるから宇宙を理解できる。


ところでここに宇宙を持ち出してきて、大、中、小に分けてみよう。


だいたい我々が直接理解できるのは中の世界である。


この大きさが中の世界は、普通の世界でそれはそのまま存在するものがそのまま認識された世界と言えるだろう。存在するものが存在するまま存在し、認識されたまま認識されていて、存在ばかりでなく、認識ばかりの世界でもない、存在+認識の世界である。


だから宇宙は、存在の面と認識の面を足して考えなければならないだろう。


例えばここで何でもいいのだが、月を考えて見よう。月があのようにあるのは、そこに月は存在していて、あのように見えているのはそれに人の認識が加わっているからであろう。月は決してあのように存在しているのではないと思われる。


そしてどこまでが存在でどこからが認識なのかはある程度簡単にわかるはずである。


ここで月よりも身近な地球に意識を戻すと、地球と物質と生物と人間とその社会は、現在このように存在して、個人の認識によって認識されている。この認識はマスクやワクチンの接種が任意なのと同じようなものである。


ここで人の認識には、同じものー違うことが不可能な事と、違うものー違っていいものー違っていいが正しさが求められるものがあると考えられる。
<喧嘩するにも共有されるものがあるからであり、それが嫌なら認識として平和な気持ちで、存在として自殺したり殺人したりテロしたり戦争すればよくー認識がないー存在とはそういうものである>


そこでこの認識が取り払われた存在ー存在そのものーがどんなもので、認識というものがどんなものかを考えてみよう。


おそらくであるが、存在そのものは、人が①全く手が加える事ができないものであり、②少なくとも変化させることがかなり困難な事であり、③例外的に単純なものであれば変化が容易でありという事かと思われるーあまり重要でないので抽象的ー。
例えば①物質を作り出したり消滅させられない、不死②生命の操作、社会の変化等は容易でないーそれなりの方法はあり例えば戦争、経済成長、政治的謀略、手術、遺伝子の操作による肉体の改造等③化学変化等ー


人間にとって存在とは体であり、認識とはココロと言えるのだが、よくよく考えると体と言っても認識が取り払われた体で......zzzzzz











つづく