schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

ブッダの行方ークリスマスにブッダを想う2ー

間が伸びたので、これは「クリスマスにブッダを想う」のつづきである。


前書


人類はそれぞれの民族の文化に違いはあっても、常識的に実在論の世界に生きてきた。これは一つの宇宙や世界を、主観が客観を見てるので、自と他が対立してるとして二元論で生きてきたのであった。


その真っ当な世界観は人類の常識であり洗脳され切っていて見事に不幸の泉となっている。


自分という内に対して外があり、世界は物質でできていて心というのもある。そうすると物質や生物は個の集まりである多であって私も多の中の一つである。心はといえば、意味の価値判断として、優秀や劣等、美や醜、の比較などから、一位、二位とか、私は誰それさんよりとか、誰それさんは誰それさんよりとか、相対の中で一喜一憂している訳である。絶望と希望、現実と夢や理想、地獄と天国、孤独や愛なども世界と無関係な個人の観念でしかないのだろう。


これを批判してしまうとこれもそれと同じ柳の下のどぜうになるので、それはそれで良いのではあるが。


前回で書かれようとしていたのは、なぜそうなるのかは分からないが、主観と客観が一致とかいうよりも、宇宙が私になってしまっていてそれ以外とは思えない物心合体症状が現実にあることの有様のゆくえ、仏陀の行方であった。


私は人に悟りを説くほどの資格も能力もないし、そういう事をするつもりもないし、人を助けたいなどという思いも全くない。ただ世間にはそういう事ができる人が結構いて涅槃への道を指導している。ただそういう人たちはこんな事は書かないものなのである。だから珍しい事ではあろう。


それが以下の自分の中で、仏陀はどのようにやってきて去っていくかというような仏陀の行方である。



本文


この話をなぜ書いてみたいかと言うのは、凡夫が仏陀になるという事が実際にあるのだが、これがなぜそうなるかというのは存在的ー心なのか体も含むかとかーなぜそうなるのかとかはよく分からないし、よって原因論的にこうすれば必ずこの結果がきますとも言えないので修養がどんな経過をたどるかを見てみたいのである。


これと殆ど同じなのがこんな話である。ある人生がうまくいっている人がいたとして、その人が若い人に聞かれて自分の人生を語ってみるという事である。そしてその教えとかアドバイスではなく、その人生の変化がどんなものだったのかを語るのである。心がどのように変化してきて今にいたったかということである。


凡夫が仏陀になるという事は長い時間をかけた心の変化でありその過程だからである。



◉流れで、この話題を箇条書きにします


①凡夫が仏陀になる過程で自分の智慧を使うとき、智慧とは何か?自の内と外、智慧と神など。
〇知識や思考は言葉や文章だが、智慧はそうではなく内的な直観である。自分の内と外があると考えるのは普通で、この内と外はよく見れば内は知識と思考でありそれと記憶や想像、、外は客観である実在する世界だが、自分の体は内だろうか外だろうか?智慧は実際には内なる全体的な働きであって、自分の内にも外にも組していないだろう。宗教的には内的な神と言ってよく、外の神の働きは全てこれの反映である。
〇理屈と実際的な話で今回は実際的な話をしたいのだが、つまりこれが宗教だからであり、一番書きたいは④なのである。
〇そこで自分の実際の智慧ー全体的で内的な直観ーだが、これはおそらく分かる人と分からない人がいる事だろう。それはそれでよい。智慧が分かるという人は実際智慧があり、自分の知性は知識の多数の集まりと思考の速さ、つまり記憶や知識の量と高速演算装置でできていると考えるならその人は実際そうなのだろう。
〇宇宙に存在するのは物質だけである。生命の心的なその実質や価値は、存在する物質とは何の関係も持たず、ただ実在として感覚で捉えられているだけと考えられる。その時にこの智慧は、実在としての宇宙である感性やそうではない感情と知性のたぐいを内包していて、その知性の能力のすべてと多彩な交渉をしている事だろう。ひょっとすれば宇宙そのものー物質自体ーとも関係しているかもしれない。
〇このような各自の、世界の全体作用が、凡夫を仏陀に作り替えるのだが、これは現代の知識人なら秀才であるほど理解できないだろう。しかし凡夫の智慧こそが全知であり秀才こそが猿智慧である。
〇智慧が知性でないという事が重要なのは、智慧が賢く知性は愚かだからであり、修養は常に賢の愚の克服だからである。要するに目覚めや救いというのは、智慧が知性をその記憶や無意識を含んで救う事だからである。人生修行と言うのは実際それだけなのである。智慧は人間の智慧なのだからセットで必ず行動が不可欠であろう。これに加えて仏道修行には涅槃をめざすのだから坐禅も付いているというだけの話である。
〇以上の観点から、宗教の教えを見た時に有用なものは全てこれであることが分かるだろう。要するに理性や知性で人を救う事はできないという事、しかし人は理性や知性に流れてしまう事、そして宗教であっても理性と知性の部分ーロゴスーは何の役にも立たないということが言えるのである。



②智慧自体は自分が持っているので探せば見つかるが、仏陀になるには禅定が最短でこれなしでは不可能に近い。


③禅定の長さで修行の結果の時間がだいたい決まる


④◉修養は確実に進んでいるが、一進一退もあり中々分からない。道の半ば程で自分が変化したことが分かってくる。実際変化している。


⑤これは誰でもほぼ同じであるがー漸悟といえるー、その過程で個人によって様々な事が起こり得るー頓悟といえるー


◎坐禅を行と言い、行というのは行為という意味だ。禅定が大切と言っても接心などでも一日数時間、日常的には2~3時間しかできない。ところが坐禅の後の日常的な集中している行為がどうも効果が大きいようなのだ。生きることは行為でありどんな重要も事も行為なしでは始まらないという体験からして坐禅は良い行為なのだろう。


◎智慧と思考は対語である。智慧と感性は類語である。知識があって頭が良い事は智慧と悟りを遠ざけ時間がかかる。これが現代なので悟りへの道は昔より困難である。ただ悟りが生かせれば知識と思考は非常に有用なものとなり世間の常識と同じである。






つづく





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実はこれは私の過去のブログの内容をもっと詳しくするものなので参考までにコピーしておく


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釈尊と同じ悟りを開くためにおおよそ何時間の坐禅が必要か?


2018/08/21 18:33


わたしは若いころから禅や仏教に興味を持っていたが熱心な修行者だった訳ではない。
それだけでも進歩はしていくのだが、


今は熱心に坐禅をしているが怠け者だった昔を振り返り今とからめてちょっと普通と違う視点から坐禅について書いてみると。


禅とか仏教あるいは宗教一般といってもいいのだが、これは自分を本来の自己に気づいて改善させて行き最終的に涅槃へ至ることと考えられる。


最終的に涅槃に至ると言ってもそれで終わりではなくそこから真の人生が始まるともいえる。これを釈迦も達磨も修行中という。


本来の自己に気づくだけなら本を読んだり話を聞いただけでも分かるし、ただしあるじみじみとそこに一定時間身を置くことでそれは確かなものになるのだから、ここで祈りや瞑想或いは坐禅が或いは信仰生活がこれらは行であるが有効なものとなる。これは人生において失敗しつつも誠実に生きて様々な経験をつむことで人間ができてくるというのと同じものである。この気づきというのはすぐにでも可能であり、これを知恵と言ってもいいし神の聖霊の働きといってもいいし人生における何か真なるものに気づくと言ってもよい。


仏教や禅においては涅槃に至るのが最終目的でありまたそれからが本当の人生の始まりであるからもしこれを求めるのならば坐禅は不可欠と考えるべきである。ほかの方法でも不可能ではないのだが、坐禅はこれに至る最短の方法であると言える。


そこでこれからが書きたいことなのだが、まあおおよそな話ではあるが何時間くらい坐禅をすると釈尊と同じ悟りを開けるかという話である。正しく何時間か坐禅をすれば誰でも
釈尊と同じ悟りを開けるのであり、そうでないのは真面目に坐禅をしないからと言える。才能は関係ないが真面目に坐禅ができるかどうかが才能と言えばいえるのかも知れない。


話を分かりやすくするためにいうのだがこれはおおよそ3000時間~4000時間ぐらいだろうと思う。一日一時間の坐禅で10年。10時間だと1年である。おおよそこんなものだろうと思う。知恵に気づくのはすぐ可能だが釈尊の悟りとは精神がすっかり改善されるのだから時間が必要なのである。そしてその過程でも個人個人で様々なことがあるのだろう。


ただし正しく行った場合である。もちろん生活の中で坐禅をしていくのだから上手な気分転換は必要でありその工夫も必要なのは普通の人生と同じである。



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