schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

ブッダの行方3悟った後の感性及び諸精神能力の変化について

前書ー悟りの変化についてー


悟りには悟りの初歩ー智慧が認識ーから完全な悟りー涅槃ーまである。釈尊が提示したのは完全な悟りー涅槃ーだがこれが仏教の特色としてある。


この涅槃を除けば、人類のあらゆる良き智慧は、この智慧の初歩から涅槃以前の間にあると言えるだろう。


仏教が人類において良き宗教だったことは疑えないが、それが社会的に果たした役割からいって他の宗教よりも優れていたとはできなくても、釈尊の体験とその教えと実践が人類の最高であったとは言えるのである。


これが何なのかというテーマが「精神の改善」について、或は研究中であるが「精神の因果について」である。


この悟りの初歩から涅槃までの変化は、人類のあらゆる良き智慧が、個人の中で部分集合として起きていると考える事ができる。



中書ー修養中の心の変化についてー


◎まずこれである


④◉修養は確実に進んでいるが、一進一退もあり中々分からない。道の半ば程で自分が変化したことが分かってくる。実際変化している。


悟りから涅槃へ至る過程の④◉で、この変化に普遍的に気づくようになるが、それまでは気まぐれな宗教体験だったのである。


ー実はこれは一人の人生において自分の成長に気づいたときにそれは十年前の自分のとの対比というのと同じようなものであるー


〇漸悟と頓悟


上記が漸悟だが、頓悟というのがあって、いきなり悟りが深まるというのがある。これは必ず漸悟の過程で起きて、何が起きるか分からない個人的なものである。またいきなり涅槃へ頓悟というのもあり得ない。この頓悟の為に外から刺激やショックを与えるというがそもそも禅問答の始まりで、肉体をシンボルとして使ったのが多くて言葉は少ないというか意味が問題とはならない。人間は言葉で疑問を呈するが悟りの答えが言葉の意味にある訳ではないので。公案と言うのは禅問答の追体験擬体験なので、頭で考えて答えを出すものではない。その先人の体験を提示するものである。ーもっと坐禅しなきゃ分からんと言われて坐禅させられるー



本文ー涅槃の後の感性及び諸精神能力と本能についてー


〇涅槃の後で変わる精神能力とかと言うと、普通は二つの立場を対立させてつまり涅槃の前と後でという事だが、それでその違いを無意味に述べるのであるが、これは実在論的な認識なので私は取らない。このブログはできるだけ観念論的世界認識に常に一定させている。


この場合二元的対立は帰納法なのだが、一元的方法は原因論である。


◎存在と認識の仮定


⑴宇宙が恒常的に存在していて変化しているが、それは質量のみである。ー時間と空間は認識であるー
⑵質量はその意志によって生物が必要な環境と生物とをこねくって作ったが、その延長として人類があって私の肉体を作り上げた。
⑶その宇宙の一部として私の肉体が数十年存在するが、それには認識というのが備わっていて、生きる為の本能、動物的悟性、感情、知性や言葉などの同根(エゴ)からきている。これの根は自己保存のためのものだろう。
⑷エゴを人間にとって精神と称していいし、それ以外の認識に感性がある。感性は高尚な機能であるが、何か目的があって作られているのでないならば、根は種族保存とか生存の為の環境の保全からきているだろう。エゴが悪の原因、感性が善の原因、と根拠である。感性については今回は触れないが、わたしのtwitterにはある程度詳しく書いてある。
⑸存在しているのは質量と物質のみであるが、宇宙が実在として現れてくるのは認識によると考えられる。よって質量や物質の存在は直接には認識できない事になろうー五感によって認識された物質は物質そのものではないし、自然科学の物質や質量は知性と科学的根拠によって垣間見られた宇宙であり、合理的に解釈され想像された宇宙であろうー


◉わたしの精神について


わたしの精神というのは、他人に比してのわたしと言う事ではなく、人間である事のわたしという事である。であるから人間の個人一般に共通だろうと思う。


そして精神と言うのは、肉体ではなく精神という事だが、これは宇宙の観念性から感性特に五感を除いたものなのだが、分かりやすく言えば、自我の事である。肉体は物質なのだから直接認識できず垣間見る事しかできないだろう。例えばこころはあからさまに在るのだが、その時脳の中で何が起きているのかは無限分の一しか分からない。また感性はと言えば宇宙から自我を除いたものである。


◉わたしの精神のこれまで形態から


〇諸現象や精神は無常で苦しみであり、生じたり滅したりしている。生じたり滅したりし終わって、寂になって楽になる。


これは精神が変化していると同時に、根源的に変化し終わると言っている釈尊の言葉である。


人生は一般に喜怒哀楽の繰り返しの変化であって、苦あれば楽あり楽あれば苦ありの無常で、その中で希望の青い鳥を探して生きていくという一般的な人生観は、ある意味常識的で健康的であるし、そこから逸脱するのも難しく、へたな事を考えたり変な事をやってしまうと、取り返しがつかなくなるという事も、事象としても精神的危機としてもあり得る。


人生の見解についても色々あっていいが、わたし自身としては人生論について聞くに堪える話は殆どなかったし、納得のいく人生を送っていた人も皆無に近かった。そしてわたしもその一人である。


人生は苦しみであり、涅槃は楽である。ということこそが宗教の山頂でありそこを目指すべきと思ったわたしは、仏教と禅を選んでただ根性がなかったのでちんたらとただ止めることはなく実践してきたのである。その間に一心不乱ではなかったので様々なことを考えてきたし色々な工夫もしてみた。結局言えるのは、①心の改善は自分の力ー自我ーではどうにもならないという事と②結局坐禅しなければならないという事であったが、自力に思える坐禅というのが①としても実際的な有用性としてよくできているという事であった。それは気づき(正念)の継続ー正定ーの基本形態だからであろう。


※そしてラッキーだった事に女に持てなかったので自分の性欲はともかく悪い女の情念に現実に引き込まれ弄ばれることがなかったという幸運はあげられるー女は弱しされどその情念は強しー


今の時点で言うと、、一切皆苦が寂滅為楽になった時に、涅槃の後の諸精神能力についてが今回の主題だったのだが、苦しみが消えるに加えて、よく無我ー自我がなくなるーとか、感情が平静になるとか、欲が無くなるとか、言われるがこのことについて考えてみようとしたのがそもそもだったのである。


◎自我や精神が無くなる


自我に感情も欲も含まれるだろうし理性(知性)も含まれるだろう。そこで自我自体が消えるかどうか考えてみると、自我はすっかり消え去ると思われるが、自我の記憶はすっかり残っていると思われる。


つまり無我というのは、自我が消え去る事ではあるが、完全になくなることではない。無我の人にも勿論知性と記憶とがはっきりとあって、感情や欲もある。この状態は、それらに束縛されない形で残ると言えるのだが、それらが純な形であると言っても良い。


宇宙が直観であり、直観の全体作用が感性であるときに、感情は自我の全体作用であるが自我に欲望、理性、記憶、言葉が含まれるときに、自我が感性に飲み込まれてしまって在る、これが涅槃と考えられる。


これは心や精神が、意識、無意識の話で理解はできないと思われる。蓄積された意識や無意識が消えて、精神能力全体作用の一部として残る。この作用は意識の下層に無意識があるでは説明できないのである。ー唯識では仏性は阿頼耶識を超えて在ると表現されている※ー


〇私見では阿頼耶識を超えて在るのは五感(五識)に過ぎないのではないかと思われるが、五識が煩悩なのは、確かに五感の記憶は煩悩であろうが、五感を煩悩と考えてしまうのは唯識が以前の仏教哲学を継承しているからと考えられる。六根清浄で分かるように、煩悩は五感を汚しているという考えがある。


※後で調べたら仏性を九識とするのもあるが普通はこんな考えはしないようである。阿頼耶識の習気がどうなるかが問題らしい。精神の因果を論じるにあたって唯識を勉強中なのでそこで詳しく考えて見たい。精神の因果は、唯識の依他起性とショーペンの根拠律の根の意志とから発しているので。



ブッタの行方3で書きたかった事は、㊀修行の半ばになって心の変化が明らかになってくるという事㊁無我とは何かという事、だった。不十分ではあるがこれで終わりとするが、これらについては今後も何回も触れることがあると思う。



ブッタの行方4は仮説・精神の因果についてだが、これは凡夫が仏陀になる変化を精神の因果として見てみるという話である。精神の因果というのは、物質の因果に独立して精神の因果があり、それによって精神現象を原因→結果で説明できるという事である。