schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

ブッダの行方 4 精神の因果について ⑴

◉精神の因果についての考え方


自然科学が生命の体を含めて物質や質量の科学であるのに比して、人文科学というのは心や精神の科学である。これらが分けられているのは、互いに原因→結果の脈絡がつかないからでもあろう。これの一番近しいのが、医学と精神医学や心理学の脳と心の関係であるが、脳と心に因果関係はつかないであろう。


※自然科学一般の客観としての物質の研究が、主観ーこころで行われているのだとすれば同じ事である。こころと物質の脈絡がつかないので自然科学が必要と考えられる。


で、自然科学に原因→結果の探究からその法則性をさぐる原因論的研究と、その形態の本質から規則を見つけたり分類等を行う帰納的な研究とがあるので、人文科学ー精神の科学ーにも、原因論的な方法と形態学的な方法とがあるだろう。現在の精神の科学はほぼ形態の科学なので精神の科学を原因論で考えてみようとするのが精神の因果の考え方である。


※こころと脳の関係は両者に因果関係が付かないので因果論としては無意味であり帰納のみである。


◉これまでの精神の因果についての探究


〇西洋と東洋


詳細に触れることは能力として不可能で目的でもないので、雑に総合として考える。「自分の体を含め宇宙が因果に見えるのが認識の方に理由がある」というのは非常に魅惑的な考えだが今回はふれない。ー時空が存在でなく認識であれば因果も存在ではなく認識だろうー


世界が因果というのは常識なので、どんな民族でも同じ感じを持っただろうが、知的に深めたのがやはりギリシャとインドではないだろうか。おそらくだが因果ー原因と結果ーというのはギリシャでありインドー仏教ーでは因縁とか縁起と言ったのだろう。そしていったん始めてしまうと進めざるを得なかったのであろう。


これの違いは何かと考えると、因果と言うのは世界が客観的に因果ということであり、因縁というのはそこに主観―自己ーとの関係が入っていると考えられる。なので仏教は観念論的であって西洋は実在論的だったと言えるのであり、結果ー精神についての因果ーという考えが西洋では低かったと言えるのだろう。なので精神の因果とは精神を因縁ではなく西洋的思惟で考えることと言える。


@私見の余談@


これの経過として人類がアフリカから五万年以上をかけて、西アジアやヨーロッパ、インドや東アジアへと広がっていった流れが考えられる。


これから人類の文化の発展過程のイメージが湧くのが、白人系と黄色人系の分化であり、白人の方は知性というのが深く考察されるようになって、黄色人の方は人間存在の達観であった。これは一万年とか二万年とかの経過で歴史には残っていないが、そっち系統の天才がいて継続されたというのがどうしても考えられる。その流れが文化を特質づけたように思われる。例えばインドの最初の文明を作ったーアーリア文明が入っていないートラヴィダ人は黄色人の流れだが、インドの文化の原核は中国の先史時代と似ているのではないかと思われる。又西では言葉ー知性ーのその系統の天才がいたのだろうと思われる。先史時代の話である。


文化の進化の過程で人類が驚いたのは、我々がここにいて自分がここにいたと言う事と、言葉についてだったろう。言葉が有ったから自己が明確に意識された訳でもある。
そしてこの言葉の性格や論理構造は五万年前も今も変わっていないはずである。現代で言えば取り残された遅れた部族の言葉もということである。
部族の自覚としての自然宗教も生まれていった。自然宗教を未熟と考えるのは間違っていると思う。一部迷信もあったという事でありそうでなければ長く続く訳がないのである。特に先史時代はそうであっただろう。まずかったら修正がされただろうし。


西洋では一般的に人間は進歩すると考えるようだが、これも西洋がそうだとは一概には言えず、おそらく近代科学が勃興してからの妄想であろう。インドでは人間は歴史と共に退化もしくは悪化すると考えるのが普通だと思う。真実は物質が豊かなって智慧がなければ人間性は劣化するというところだろう。物質的な幸福ばかり考える事になったら他に目が向かないのだから、人間が劣化したのは明らかで考えるまでもないと思う。物質が豊かになって生活が複雑になってそれへの適応として知識も増える。でも知識が増えて思考量が増えても、これも智慧がなければ人間の劣化だろう。かくして画一化して全体の部品の一個となり果てるのである。
ー余談終わるー


〇物質とこころについて


一般に物質とこころは物質の方が分かりやすくこころは分かり難いと考えると思うがわたしは逆だと思う。
※女のこころが分からないのは男だからであり、それは男が馬鹿に本質づけられているからで、女の場合は男のこころもよく分かっていると考えられる。一個の細胞を目指す数千万から連想できる。


そこで物質が因果なのは常識に於いては自明であり、主題は精神の因果についてである。心が脳の中にあるとすれば、精神の因果も脳として物質の現象としてあるはずである。ただこれは極めがたいことでおそらく不可能であろう。これはそれが複雑すぎるという事よりも、実在は物質ではなく観念であるからだと思われる。ーそもそも自然科学も物質を観念で説明しているのだろうと思うがー


でもここで宇宙論と同じように精神の因果を物質現象から想像してみよう。


精神の因果というのは、精神の因果も物質の因果に乗っかっているのではあるが、実在としての種類がまったく違っているという事なのだが、人間機械論というのがあるが、人間の体が機械的に説明できたとしても精神は説明できないということである。ただわたしは肉体は精神よりずっと複雑だろうと思うが。


精神の因果と普通考えないのは、こころが因果には見えないからである。こころはどうしても因果には見えない。こころが無意識から説明されても、精神や意識は、本能とか欲望、感情と美とか、意志、記憶、理性、言葉、論理とか夢、想像とかで因果はどこにもない。


であるから精神が因果であればー因果でなければ変化しないだろうー、その下層が因果になっていると考えられ、そこいらが物質現象とごっちゃになっていると考えられる。


^^ サイエンスノンフィクション ^^
※サイエンスノンフィクションーSNF、卵ご飯ーTKG、納豆ご飯ーNKG、コオロギご飯ーKKG、カツカレーKCR、海鮮丼ーKSD、親子丼ーOKD、天丼と味噌汁ーTDM


ー宇宙から脳を見た場合ー


宇宙は一つの質量のみが存在していてそれ以外には何もない。一つが存在するのでそれは無ではなく有である。それ以外はまったく何も存在していない。時間もなく空間もなくそれは変化しているが、これが何なのかは理解することはできない。そんな事は問題にもならない。無意味である。仮に記せば、宇宙は何等かの目的や意志のようなもので、自分を使ってその存在に差別を造ったが、その多様性の一つが生命の動物の中の私の脳で、脳と体と宇宙は一つである。脳は生命である以上細胞の働きだが、その累乗の組み合わせに元素、分子、高分子、タンパク質、電子、他が関与し、そのあまりの複雑さに理解することは不可能である。あまりにあまりに複雑である。ー脳が心になる事はー


ー脳から宇宙を見た場合ー


我々が生きている普通の世界がそれである。わたしが只、今、現在、見ていて存在しているこの世界のみーその奥や裏を含んでーが実在している。最先端の科学による科学的根拠ー観察ーと合理的に想像された世界は実在ではない。それは実在ではなく真実である。真実によって実在を作り出すのが仮想現実といえる。


〇因果と論理について


因果というのは物質が原因→結果として変化している事をいう。論理というのは思考の形式のことをいう。因果は存在の直観認識、論理は言葉による認識であり、この二つには何の関係もないので別物である。ただ因果について考えるというのは論理なので結構勘違いすることが多い。


※世界の名著で偶然に、バートランドラッセルが若い頃の著書で見事に勘違いしているのを見つけた。因果を論理づけてその論理を因果としていた。ただ後の著書で気づいて訂正していたが。論理主義者だからと言う事もあっただろうが。


因果と論理の混乱は、物質ー事象とそれについての名称の二つがある事からきている。例えば人間に実物と名前とがある。自然や社会の事象はそのままにしておけば、因果のままだがそれを考察するときは言葉-論理によって行われる。


※古代人は言葉に驚いた。言霊という考えはどの民族にもあった。神の言葉などもそうだろう。古代人は実物と言葉の区別ができなかった。そして多くの人間は今も古代人である。人間は概念や言葉の世界に、むしろのめり込み浸りきって生きているものである。それで考えた正しい事がー因果と論理の区別がつかずー現実にそぐわなかったという事はごく普通にある事だと思われる。実はこれは存在(存在的)と意味(存在論的)の問題と同じである。
※ショーペンハウアーが哲学者は本よりも「世界という書物を読まなければならない」と言ったのはこれである。


〇精神の因果の問題意識


人間が迷いの世界ー精神的無常ーから智慧によって涅槃ー精神的永遠、空ーに至ることは、心理現象や記憶が無化されることである。これは心理学では説明できないので、精神の因果という考え方ーショーペンハウアーでは意志の否定であったーで説明できるかもしれない。


※わたしは涅槃への変化は精神の因果の操作によるのではないかと考えてきた。従来の経験則の修道法に、心的な工夫が何かあるか色々やってみたが、具体的にははっきりしていない。もちろん工夫すること自体が駄目というのも考慮したうえであるが。
<仮説だがこんな事が考えられる。意識では言葉の流れがあり、無意識においては感情と精神的な苦しみ的の現象がある。その下層の精神の因果は自分の肉体の触覚である体感の淀んだ現象として現れている。とくに顕著なのは首と肩の凝りであるが、その体感を精神の因果の現れと捉える。これらの外に永遠としての純なる感性がある>


〇四諦、十二因縁について


ー序ー
四諦は仏陀の最初の説法であると同時に仏教の実践の核である。仏教とはこれだけとも言える。十二因縁ー縁起は四諦の理論であると思う。四諦は釈尊の教えに間違いないが十二因縁は釈尊の直接の教えではないだろう。同じことは説いたと思われるがもっと単純な形だったと思う。(私見)


釈尊の時代の文化背景には、現代の文化が何の後影もなくその頃のインド文化のみだったのだから、現代文明から見てその説法がどうこう言っても意味はないだろう。ただそれを考慮しなくてもその知情意は驚くべき人物であった。才能に加えてそれが悟りだった訳で、説法を読むだけでそれがわかる。例えば筏の例えである。川を渡ったら筏は捨てなければならないとして、法さえも捨てなければならないとしたのだが、法とは自分の説法の事である。つまり自分の様々な対機説法は重要とはしてない訳である。


ー四諦は分かりやすいが十二因縁は分かり難いー


物質の因果と精神の因果では分りにくい面もあるので物質現象と精神現象にしてみよう。


物質現象と精神現象の区別は古代人にはつかなかった。いや現代人の専門家でさえそうで分けている人は少ない。その必要を感じないということもあるだろう。ただこれは人類の幼稚さを表していて、それゆえに少しづつ意識されるようになってきたと言えるのである。


※人間の場合、物質現象とは体であり、精神現象とはこころである。これはまったく別類として在って互いにほとんど無関係である。これによって自分が二つあり、自分とそれの意識とである。人間の体はこころに影響されない。例えば病気はこころに左右されない。これには反論があるとおもう。
※幸福感が体に良い影響を与え、不幸感が体に悪い影響を与えるのは、こころが体に影響を与えるのではなく、幸福感によって為される行為や、その肉体の状態が体に良い影響を与えるのであり、不幸感によって為される行為やその肉体の状態の継続が体に悪影響を与えると考えられる。例えば恐怖によってショックを受けるなどというのは体の守備範囲である。これで死んだりはしないのである。ただ死んだほうが良いとなったときは死ぬだろうが。勿論幸福感がこころに良い影響を与え続けて、不幸感が心を不幸にし続けるということは当然あるわけである。そうしたら良い行為が体を良い状態に保つだろう。ただ常識的な意味で良い精神状態が良い身体の状態を保つー心が体に影響するーということは言えるのだろう。


肉体の苦しみは物質の因果(ただし物質は認識できないのでそれは触覚なのだが)、こころの苦しみは精神現象もしくは精神の因果である。


これは肉体現象と精神現象の区別は、仏教哲学等はこころから見た世界の学問なので東洋の方が先んじていて、西洋哲学では最近なのだが、おおざっぱに考えても仏教哲学でも西洋哲学や科学でも時代と共に明確に区別されるようになってきている。


(輪廻)→アビダルマ→中観→華厳→唯識、を見ても心理現象が物質現象から区別されてきたし、西洋哲学や科学でもそうである。


そこで四諦の、苦、集、滅、道だが、これは釈尊の教えに間違いなく、それも初期のものであり本当に初転法輪だろうと思うーただこれの分析されたもの(苦が四苦八苦とか)は後のものでかなりあっさりしたものだったと思うその方が重要だろうー。教えとして考え尽くされていて、後の仏教の展開はすべてここからきている。苦とは人間存在は苦しみであるということ、集とは人間存在が苦しみなのは、煩悩の集まりがあるからということ、滅というのは集は滅することができるということ、道というのは滅の方法として八つが方法が考えられるということである。これは煩悩の滅なのだから殆どこころのことと考えて問題なく、ーだから分かりやすいのだがー実際には釈尊の考えとしては苦はこころだけではなく、肉体も入っている訳である。これは深いといえば深いのだが、実際釈尊にとっては、聞く側の人類の未熟によって、精神現象と肉体現象との区別をつける必要がなかったのだろうと思う。釈尊自身が思想的に区別がつかなかったのかもしれないが、悟りというのは心身の区別がつくことでもあるはずだから。実際に悟りはこころがと体(触覚)に関係することであり、心が無(煩悩が滅)の時に、体や事象が空になる事と考えられるからである。ー心身脱落ともいうー


@付記(私見)上記の観点から見た輪廻の意味@


物質現象と精神現象の分類があることから、輪廻には物質現象の輪廻と精神現象の輪廻があって、この二つには原因と結果の関係は成り立たないことになる。これから輪廻の深遠なものと迷信的なものとがはっきりとすると思う。


物質の輪廻というのは、おそらく古代人の冴えた感性に訴えたもので、生物の特に動物の肉体が、親から子へと、生まれては死んで死んでは生まれてくる事から来ていると考えられる。これが宇宙全体としての円環的な繰り返しの変化に見えた訳である。物質的に見れば個は、人間も含めて自我がないのだから、まったく同じ様なものが生まれては死んで死んでは生まれてくるのを繰り返しているというのが現実だろう。それを転生といえばいえる訳である。そこで自分はといえば、直接ではあるが、他と同じ様なものの一つとして、ただ存在しているだけという事になるだろうし、死んだらまた同じ様なものが生まれてくるだろうという事になるだろうと思う。これはアーリア人の文化であり同じようなものがギリシャの古代にあったと言われている。考えて見ればプラトンのイデアはここから来ていて、同じ様なものがトラヴィダ人の人生の達観から結びついたのが梵我一如とかニルバーナとか考えられる。


精神の輪廻は、特に人の精神が輪廻するということだがこれは現代になってよく言われるようになった。昔は区別しなかった。たとえば深層心理学の集合無意識で、個人もしくは集団とかの記憶が無意識の中に遺伝していくという事である。そこで精神的なもの文化的なものが遺伝子となって遺伝すると言う事が日常的に言われる。精神的なものが遺伝子になるというのは、疑わしい面があると思う。遺伝子と言うのはそんなに複雑なものではないので、そこに様々な精神現象の記憶を詰め込むことはできないと思われるが、面影だけが残るのだろうか?善因善果、悪因悪果などの業は、個人の場合も子孫の場合でもこれで理解できる。
@付記終わる@


そこで十二因縁だが








つづく