schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

ブッダの行方 番外編 最初の公案 その主観と客観

◎これを書く意図は、禅について、西洋的な主観と客観からどのように理解できるか或いはできないかと言う事と、このブログの基本であるショーペンハウアーの主観と客観の理論的洞察が、勿論二つには何の繋がりもないのだが、禅の実践に応用されているかのようだという常々感じる驚きにある。つまりはこれは理論の証明といっていいのだが、ただ今回はこれについて丁寧に考察するという事ではない。


◎最初の公案というのは各道場で、無字、本来の面目、隻手の音声の三つの内のいづれかだと思われる。最初の公案は、主観と客観は本来一致していることの「実体験」をさせるものと考えられる。


◎主観と客観が一致しているという体験は、それを体験するまでは、主観から見ていくか客観から見ていくかの違いがあるが、公案禅では最初に問題にするのは主観である。そこから始めるというのは、宗教の人類史的にも極めて異常なことのように思われる。つまり真実の自己が、宇宙との関係から見えてくるのではなく、自分の中に見つける事から始まるという事だからである。ただ主観と客観は一致しているのだから、主観が主で客観が従という事なのであるが。


◎これはこのブログから見た最初の公案ー初関ーの主観と客観からの分析であり禅の伝統的な見解とは関係ない。


◎このブログは世界の正しい解釈、その正しい記述が主題であり、その客観世界は主観が反映されたものであるという立場に立っている。


◎このブログの最初には、ショーペンハウアーの西洋哲学の主観と客観の考察から主観の定義が述べられており、それは「主観はあらゆるものを認識するが、決して認識されないものである」という、存在する主観についてである。


◎主観と客観については、人間の存在ー直観認識ーと認識ー概念認識ーが明確に区別されることから、存在についての主観と客観と、認識における主観的と客観的の四つが区別される。
※存在ー直観認識である①主観ー実在する主観、②実在する客観、、と認識ー概念認識である③主観的な解釈、④客観的な解釈の四つである。


◎無字


無字というのは無の事で、無の解釈ではなく、無の体験である。この公案は無が直接問題になっていて極めて公案禅的である。これは本来の自己の主観が直接問題になっていてそれが無だということなのである。しかしそれの体験の見解では、それは無の哲学的解釈ではないのだから、具体な事象についてその体験を述べなければならない。私的な体験ではこの事象にも自分の肉体が使われることが多いようである。かなり普遍的な無の公案でさえもである。坐禅の後なので事象が自分の肉体になってしまうという事はあるのだが、そうは言ってもこれは驚くべきことであり、禅においては主観が無なのだから、自分の体は客観として認識されていることになる。





◎隻手音声


これは両手で打つと音がするが、片手だけからでる音を聞けと言う意味だが、自分の肉体である片手が問題になっている。ネットを見ていたら、「この片手で師家の横顔を殴って音を出した奴がいたがこんな事では通らんぞ」というのがあった。師家の所に入室して問答する前と後では仏に対するインド式の丁寧な礼拝をするが、これを行うと師家に何をしてもいいという事になっているらしい。室内の事は口外しては駄目なので他の人が何をしているかは全く分からない。殴るというのは禅の伝統の表現で相手を否定する事なので中には師家を殴る人もいるかもしれない。これは音を出すと考えてしまった作為があるので駄目だったのだろうと思われる。






つづく