実在と観念について見えてきたもの その1
世界(直観)と言葉(精神)の関係には何かもっと深いものがあると感じて
観念論と実在論について考えてみた。
観念論は一元論なのであり
実在論は二元論なのであり
現在の文化を支配しているのは実在論である。
ところがどうも世界の実在は実在論ではなく観念なのであって
世界と言葉も深い関係があるようなのだ。
西洋文明は全部ではないが極めて実在論的な文明だが
ただ良く見てみるとそこにある深い知恵は観念的なのだ。
例えばキリスト教だがそれは神と人間はまったく区別されている二元論だが
キリスト者の知恵自体は観念的なのだ。
自分と他人に区別があったら隣人愛はあり得ない。
調べてみると西洋以外の一神教はもっと観念的である。
本当は一神教なんてどうでもいいのだが影響力が大きいので一応書いておく。
また科学は客観的真理を追究するガチガチの実在論である。客観的というのは主観と対
立させているからである。
西洋民主主義、政党政治などもそこからきており西洋文明というのは少なくとも表面は皆
それなのだ。
人間の文明はどこでも自己と他者を区別するところから始まっている。これはよくよく
観察すると動物の時代から引きずっているものでこれを素朴実在論と言う。
だが意識するしないにかかわらず、人間は観念的なものつまりこれは自他の一致による
ものなのだが大切にしてきたものなのだ。それが実在なのだから。
現代という時代は実在論の文明が行き詰ってきていると考えられ、たとえばロボット
と人間、人工知能とこころの区別がつかない人が多く、これは人類全体の問題であり
その文化の飛躍がされなければ滅亡というところまでさしかかっている。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。