schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

キリストの贖いによる啓示について

贖いによる啓示というのは


主なる神に捨てられた人間これが絶望なのだが


打ちひしがれた弱い人間が行いによることなく


十字架の啓示の信仰によって神に許されて


神の元に戻りさらに以降の罪も許されるということである。


これが罪の許しである。


これで救われたと感じた時それが聖霊の働きである。


これは人間の無分別なる宗教的知恵の発動であるが


複雑な人間心理の最初のコントロールとして非常にうまくできており


多くの神を信じる者がこの単純さがゆえに極めて深いものを感じるのは当然だろう。


これはマインドフルネスの気づきとまったく同じだが極めて宗教感情に訴えている。


ただ神の存在を信じなければ実感できないとも言える。



一方その後の祈りと信仰生活による人間の精神(動因)の改善が罪の癒しであって


癒しの究極が仏教の涅槃と同じなのだが勿論キリスト教にはこういう考えはない。


なので罪の癒しは祈りと信仰生活という行によってしか成されないのであり


ただの信仰は宗教的知恵への気づきであるということが分かる。



宗教的知恵というのが心理科学的に無なる主観なのであり、


無なる主観が祈りと信仰生活という行によって罪を癒していく


つまり自分の動因の改善をしていくということなのである。


これは主観が知恵であるばかりでなく精神を作り替える力があるということである。



分類について。分類は比較であり違いと同じを判断することだが違いをつきつめればキリスト教と仏教はどこまでも違うのだがこの二つは人間の精神を扱っているということで同じである。どんな事でも比較するときは違いと同じを同時に満足させなければならない。


ここで実在する観念論の存在者として、神、キリスト、聖霊、無なる主観、宗教的知恵、は全く同一であることが分かる。名前だけが違うのである。(存在者の分類)


神が実在論として自分の外に仮定されるから三位なのであって観念的には一体である。単純なほうが真理なのだからこんなことからも実在は観念であろうことが分かる。