schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

若さについて

若いうちから世界を洞察している人を天才と言うのだと思うが


それでも学問や芸術の天才は世界のすべてを洞察しているわけではない。


世界のすべてを洞察しているのが宗教の天才であるが


その宗教の天才の能力が特殊なものではないのは


それが知性や感性ではなく熱心に修行ができる行ができるという能力だからである。


それは宗教の天才は精神の改造が必要だからである。


人間は精神が改造されて初めて本来の能力が戻る。


生まれながらに心の清い人はいるがそれでもかなり汚れている。


様々なことに対する弱さというのは心の汚れである。


それでも宗教の天才であってもその経験には違いがあって


その点では普通の人と同じなのである。


また行動や経験は行なのだから誠実に生きることができればそれは修行であるといえる。


誠実というのは正しいと思われる理念ではまったく駄目でというのは


思い込みではまったくどうにもならならないからである。


誠実さというのは無である。



真なる経験が増えると本来の知恵や能力が出てきて女にも持てるようになってくる。


でも天才でない普通の人間が女に持てるようになったころには


もう若さが無くなってしまっているのであった。