schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

世界の文化の中心或いは宗教、芸術、学問について

これは観念論的文化論である。



観念論的視点からみると、


世界の文化の中心はパリでもなくニューヨークでもなくわたしである。


なぜならそれ以外は主観的に無意味であり、つまり客観的真理というのがつまらない真理だからである。


実際に主観において真理でなければ客観においても真理ではないので、客観的真理というのは主観的真理の種概念にすぎないものである。



完全な観念論による人間の存在(者)は、主観、直観、精神に分けられこれが最高の類と考えられる。


人間の活動は、宗教、芸術、学問の三つに分けられる。



主観における活動は宗教である。


宗教とはただ自分を極めることであるが、それは主観を極めることに他ならない。


主観とは無であり知恵であり、


自分の体<直接の直観>と精神は主観にとっては他者、直接の他者である。


使用されるのはただ自分の体である。



直観における活動は芸術である


芸術の定義はあらゆる表象によって表現されることやものである。


表象で最も重要な素材が自分の体である。ほかに目に映るもの、音、味わうもの、香るもの、触ること、表象の表象である言葉がある。宗教芸術は宗教ではなく芸術である。


自然はそれ自体が芸術である。なぜならば自然は主観の表象だからである。主観がなければ自然は客観的にこのようなものではあり得ない。自分の体自体が自然の主観による表象である。



精神における活動は学問である。


学問の定義は概念や言葉による各種類の真なる命題の連なりの蓄積である。


科学は学問であり技術は芸術である。宗教の学問は宗教ではなく学問である。教典は
芸術である。例えば大蔵経の経は芸術、律や論は学問である。律や論は言ってることが
間違っているならば学問としての価値は当然ない。



そして芸術(美)、学問(真)、道徳(善)は主観(宗教)においてつながっている。