schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

輪廻と転生と業について

輪廻は  生物においての  因果のその奥の  不気味さを表現したもののように感じ  転生は  発がん物質を取らないようにする(意思)と  がんにかかりにくくなる(肉体=物質)というようなもので  業というのは  輪廻の業(物質)と転生の業(意思)の  二種類あるのではないかと思う


輪廻転生については深いものと未熟なものが混じっていてまたいろいろな表現や解釈があり簡単に結論めいたものは書けないと思う。が
<未熟と言うのは認識における精神と物質(直観)の混合でありこれは現代西洋哲学でもしばしば見られる、おそらくカントの二律背反もこれである>


輪廻というのは一つの宗教的な古代民族が垣間見た物質自体の内実を表現したものではないかと思う。転生というのはそれと動物の生特に人生を関連させたものであると思われる。物質自体の内実というのは邪悪とか危険とかというものではないがある種不気味なもので、これが生物になるといっそう目立つようになってくる。


これをある仮定をして考察をすることができるがもっと単純な想像をしてみよう。


人間の認識能力がなければ物質自体は一つであるはずである。時間も空間もない。数量もない。自も他もない。大も少もない。そうであるとしてみよう。この全体のある部分が太陽系であり地球であってそのひとつの全体の微小部分が生物として人間として捕食したりされたり危害を与えあったりしている。と見えたときに、これとその全体との関係の不気味さを輪廻と表現したのであろう。なにしろブツがブツだけに表現が難しい。


転生は生物が(遺伝によって)同じような個体が次々に死んでは生まれを繰り返していると見えるときに(生まれ変わり)、これは物質の因果であるが、動物ではそれに意志が関係しているように見えるし、人間では意志ばかりでなく心や言葉が関係しているように見える(身、口、意の三業)。実際に言葉で破壊が起ることがある(例女から別れの手紙が来る→男は自殺とか物を壊す、がこれらは言葉、意志、物損に因果関係があるのではないなぜなら言葉や意志が物損するのではなく肉体が物損するからである)があるので、身口意の三業が悠久の生命の生まれ変わりに関係しているように見えたのだろう。だが


ここである確実な前提をしよう。(物質の因果、精神の因果、概念の三つが同質か異質かは決定できる)


1)人間の肉体と精神の因果と概念は類型が違っており殆ど関係しない


この前提によって動物や人間の精神の変化による物質や肉体の転生はあり得ない。帰納的にみても個の肉体の転生は全体の意志であるが、個の意志が全体の意志に影響を与えることは殆どないだろうから、個の意志で個の転生が決定することは因果としてはあり得ないのである。言葉や意志が間接的に物質の因果を変えたりその逆は当然あって又精神の因果が記憶として転生?していくということは確かである。


前提によって、肉体と精神に二種の因果がありこれによって業に二種類あることになる。


釈尊が最後の悟りを得た時に「わたしは輪廻から解脱しもう転生することはない」と
言ったのは「精神の業を消滅させたら精神の因果から解脱しこころが自由になった」
ということだと推察できる。


ただこれは物質現象が夢のようなものであり、そのことが実在として物質現象の真相で
あり、それが物質の因果はないようであって、物質の因果から解脱したようであると
いうことなのだろうから人間というのは不思議なものなのかもしれない。



ちょっと抽象的なので捕捉すると、仏教が釈尊の悟りとその追体験の実践を問題とするだけなら宗教としてはそれだけでよいのだが、輪廻から解脱したということになると宇宙を超えたつまり物質を超えたということになると思う。哲学的な問題になると思う。要するに不死である。


ここで因果に物質の因果と精神の因果の二種類があるとするならば、(仏教でもこれは区別されているがその関係に曖昧な所がある)釈尊の解脱というのは、物質の因果から解脱することはできないのだから精神の因果から解脱したことなのだがこれを宇宙を超えたつまり物質の因果を超えたと言っているのである。


これは実在論の科学からすればおかしいのだが、ただこれは真実なのだと思う。


そこで宇宙とは何かと言えば、これは宇宙の表面ではなく宇宙そのもの(物自体)のことだが、観念論的に時間と空間=純粋(直観)数学、因果性、五感、概念、論理などを取り去ってしまえば物質は一つになってしまうだろう(これが物自体)ただこれを論ずるのは想像になってしまう。宇宙には時間も空間もなくこれ一つあるのみだから宇宙=物自体である。人間は自分の認識能力を通してこれを今の宇宙と見ている。勿論証明された話ではない。


そこで輪廻や転生というのはこの物自体(これは一であり全である、そしてこれは観念論の物質である)の何かしらの変化なのだから輪廻や転生というのがただ物質の表面ではなく何か感性的にこの物自体を見据えたものだろうと仮定してこれを書いたのである。そしてなにかしら実在論的物質の因果から解脱することは現実にあるといえるのである。ただ明確に理解できることではない。


多少違うかもしれないがショーペンハウアーの意志はこの物自体を意志として認識できるとしたものだろうと思う。彼自身は現象では物質の意志と精神の意志を区別した人だがおそらく物自体においては同一として盲目の意志とした。精神を作ったのも確かに物自体なのだが。それで涅槃に至る方法を意志の否定とした。


確かに物質の意志は盲目に見えるが意志の否定において開ける境地が何かすごく素晴らしく肯定的と思え、また醜い世界があるように見えて美しい世界もあることを考えると物自体の意志が盲目とだけ断定できないように思う。ここで彼は有名な芸術論を展開している。


私自身ははっきりとは分からないが人間の意志は物自体の意志と無関係ではないだろうが人類自ら作り出したものが主なのではないかと思う。