なぜわたしは、いつも何か考えているのか?その2
なぜ私はいつも何か考えているのか?これは事実なのだろうか?考えさせられているのではないだろうか?ということはさておいて、
主観は無であり、自分の、身体という直観や精神も客観である。なので思考も客観といえる。
この視点から坐禅というのは、自分の思考を無なる主観が眺めているという状態を続けることと言える。
このとき何が起こっているのだろうか?
このとき意識されるのは言葉や文章の絶え間ない噴出だが、意識下では様々な概念や概念以前の念、五感の記憶が流れているはずである。
中心となるのは己の記憶であっても、自分の記憶が猿だったころのライオンに食われる恐怖やその逆もあるはずである。
このことは私の精神では、言葉と直観の記憶が繋がっているということであり、その最上位にある言葉が常に意識されてしまうことのように思われる。
直観とは現在の宇宙である。そして精神は消滅させることができ、それができるのは主観のみである。直観は常に真実在としてあるが未熟な精神がその認識を妨げる。
そしてその精神は種子という観念の原子の組み合わせでできている。種子のさまざまな組み合わせを薫習とか習気という訳である。
というのが、坐禅という経験を詳しく観察した観念論の科学である唯識と考えられる。
そして宇宙という直観もわたしの表象であるのだからこれも原子ではなく種子でできているはずである。
坐禅とは、主観が精神の習気を消滅させ、知性を純粋的にし、直観(表象、宇宙)を主観そのものにすることや、そこまで至らない場合は、主観に気づきそれで習気の消滅を進めていくという治療の方法と言える。
これは観念論であり、その存在の最高概念が、主観、直観、精神なのである。
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