schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

㊂㊀文化において実在論的と観念論的は混じっている

実在論は世界という客観の中に自分がいるという実在感とその思想であり、観念論は客観的な世界はすべて主観が反映しているというちょっと常識から離れているような実在感とその思想である。


ただ人間が素朴実在論の世界にいると思っているというのと、素朴実在論がおかしいというのもこれは常識である。例えば視覚の対象からりんごの木が在るというのは普通は疑えないのだが、りんごが赤く、りんごが甘いというのは人間の中に理由があるのである。前者が実在論であり後者が観念論である。世界が実在として、実在的と考えられれば実在論であり観念的と考えられれば観念論であろう。


わたしは素朴実在は生物に植え付けられたものであり、人間の文化もそこから発生しているが、人間がいつまでもそんな社会としての文化を継続していっても極端にいうと滅亡してしまうので変えていかなければならないと思っている。今の人間の文化は偶然であり必然ではない。


実在論、観念論と言ってしまうと、それは哲学の説であるという所で終わってしまう。


そこでそれが実際に現れているところの個人の心や社会の文化というものにどのように表れているのか見てみたい。


と言ってもこんなことを詳しく調べて正確に記述しようとしたら何か月もかかるはずなので間違いも含めてかなり大雑把にということになる。


そこでおそらく本質的だと思うのだが、実在論を物質と精神の二元論、多元論、観念論を精神的な一元論として捉えてみよう。


<ただ物質と精神からくる多元論は精神に原因があるという落ちがあるのだが>