schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

㊂㊁文化において実在論的と観念論的は混じっている

㊂㊀で、ここでは、実在論と観念論という哲学についてでなく、個の人間、及びその集まりである社会の文化について、実在論的なもの、観念論的なものを、考察するということを述べた。


簡単にするため、方法として十分ではないだろうが、一つの本質的だと思われる仮定に沿うことも述べた。それは


世界の成り立ちが、実在論は物質と精神の二元論(二元論から多元論が出てくる)、観念論は精神の一元論として考えてみようということである。


この精神というのは正確には観念といったほうが良い。観念というのは精神よりも広い意味を持ち、それは世界が観念であると考えられたときに精神がそれに含まれるからである。


◎よって物質という概念とその実在感とが出てきたとき実在論的な世界観になって、それが出てこないなら観念論的としてみることにしよう。なんでそうなるの?→精神現象や社会現象を物理現象で説明できた人はいないのだから、人間の文化は物質がでてくると二元論になってしまうからである。精神現象のみであって物質というものが出てこないならば、それは観念論的として一向に差し支えないはずである。


◎精神現象は、物質現象と類型がまったく違うので、精神現象を物質現象から説明しようとするのは頓珍漢であろう。それは精神現象は物質現象に対応しているのだが(たとえば心と脳、不安に対する安定剤)、精神現象を物質現象を基礎として説明することは不可能だろうということである。観念が具体的で物質は抽象的だからともいえるだろう。これは客観的に物質を研究していたと思っていたが、実はそれを研究していたのは主観であったという観測者の問題でもある(物質を研究していたのは心であった)。以上は精神の認識について。


精神の存在については「精神の因果について」に書いてある。個人や人類史の悲劇によって精神に何か悪性腫瘍?ができているとしよう。これは無意識に残っているので意識ではどうしようもないのだが、それは意識の下層に無意識があるというだけの観念的単純でなく、意識や無意識を作り出している何らかの実在的因果であるとわたしは考える。これを精神の因果によって完治させることはできるが物質の因果ではできない。薬や物理的に精神の悪性腫瘍を無化させることはできないということである。逆に精神の腫瘍は精神の因果によってでなければできなかったのである。因果と言うのは不可逆なので記憶の腫瘍を消すことはできないが、無化させることができる。(これは私見ではニューロンの電子的な流れを部分的なものから全体的なものにしてしまうということである)


薬は補助的に使うことができる。
わたしは失恋の苦しみを酒の癒しでまぎらした
酔いが覚めると失恋は続いたがそれは時間と共に薄れていった
だがそれは無意識の中に残っていてわたしの人格を形づくっていた


◎物質が観念で説明できるなら世界の実在が観念であることが証明されるはずである。


<観念論はなぜ一元論なのか>


上記では精神的なものは観念論的と述べた。観念論とは実際にはそれよりも実在世界が五感の対象であることをいうと私は考えるのだが、その時主観と客観は一致しているのであるから直観世界が現実に一元的なのである。


<動物から考える人類の初期についての想像>


動物は個体として発生させられるのであるからいかなるものも自我を持っている。自分と他を区別している。この他というのが世界であり「物質のようなもの」なのではないかと思う。つまり自我の出現は、おのずと世界があってそれは物質のようなものであるという概念的を作りだしているだろうと考えることができる。素朴実在である。そして人間の複雑な自我もこれが起源だろうと思う。上記は必ずしも明快ではないが、自我というのは自他の対立からできている概念認識なので二元的であり、物質と観念も対立している。概念認識の全体作用が感情である。自我が無化(消滅とも言うが正確ではない)された場合、この物質のようなものという感情も無化されて物質の本質が美(妙)であることが理解されるであろう。


高等動物は数百の概念を持つとわたしは考えるが、というよりも固有名詞のすべてと必要な感情についての概念を持つと考えるが(例えば自分、他人、子供、親、水、各種の食べ物など、あるいは満足、危ない、怖い、逃げろ)それによって自分や世界を意識できるのだが、言葉はないのですぐに忘れるのではないかと思う。おそらく欲求が満たされた時は、美も理解できるのではないかと思う。ただこれも言葉がないので執着できないので分からないように見えるのではないかと思う。すなわち美を長く意識することができない。ただ強い感情を伴う美(五感の印象)は、食べ物の味(食)、夫婦異性(性)、子供の可愛さなどは直接的に強烈であり、記憶としてもいつまでも残ることがあるだろう。(高等動物の五感と感情の記憶は人間と同じと考えられる)


言葉が概念を無限に作り出すことができるようになったとき人間が生まれた。文章で世界とそれに含まれる自分その他を意識したのである。そこでできたのが世界の実在論哲学である。世界は物質と精神であるということである。あるいは人間の場合は肉体と魂でできているといってもよい。ただ物質は形があるが精神は形がないと思われた。よって人間や人類の常識は形ある物質とどこにあるか分からないが否定できない精神との実在論なのである。


<観念論的な文化とは何か>


上記によって物質がでてこなければ、又五感による直観的なものを、観念論的な文化であると考えてみると、
◇必ずしも理解されてはいないが、動物や人間の認識には、五感と宇宙が直接結びついている直観認識と、概念による認識の二つがあってこれしかない。これらは物質ではないのだから共に観念としか考えることができない。


数学は内的直観と論理或いは分類であるから観念論的である。


哲学は観念論的である。


自然科学は真なる命題の連合の集合であるから観念論的である。ただ命題のその真の根拠は物質であることが多い。それで頭の中で直観的に世界や宇宙を構築想像させている。


社会科学も自然科学と同じであるが、ただ観念的な面が強いのだろう。


医学は自然科学であるが、ただ精神医学は100%観念論的科学である。ただその根拠に物質を持ってくることがある。であるから薬物療法の因果関係がはっきりしない。


人文科学は観念論的科学である。精神医学と同じであろう。


宗教のわたしの定義は、自分の存在を洞察する知恵とそれによる精神の改善なので、100%観念論的である。


芸術は鑑賞は観念論的、創作は物質的なものであれば物質的であるように見える。ただ鑑賞できなければ創作もできないので鑑賞が主であり創作が従であるようにわたしには思われる。芸術が創作であると考えるのは文化が実在論的だからであろう。


民芸、建築は芸術の創作、工業は機械による創作と考えることもできるが、深入りはしない。


セックスは、触れ合い、オルガスム、は触覚、+想像と感情であり、わたしと彼女がチョメチョメしていると思うのは想像であるので観念論的である。オナニーもそれに準ずるであろう。


あらゆる五感や言葉、想像の美、あらゆる感情は観念的である。


食事は味覚であって食べ物が物質と言うのは想像であるから観念的であり、又人間のあらゆる行為は意志や体感の感じであり、自分の肉体が世界の中で動いていると思うのは想像であるのでこれまた観念的であるなどと考えることができる。


以上大雑把な記述なのでこれで終わる。


<では物質とは何か>


今回の主題ではないので省くがこのブログで何回か書いているはずである。


一言でいうなら、物質のその実在は、五感では認識できないもの(X)であって、五感の直観認識と、精神的に想像された概念、言葉、記憶なのだから観念的なものであろう。


実は観念である、物質の実在感がどこからくるかは、直観認識または概念認識のどちらかであるが、直観認識は一元的(一体的)であって概念認識が二元的(対立的、物質は観念に対立している)なのであるから概念認識からくると考えられる。