schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

想像力と創造力について

想像力は誰でも持っていて誰でも使っているが、創造力は誰でも持っているが誰でも使っているとは言えない。


<想像とは何か>


想像とは五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)の記憶のことである。想像力とはそれらを思い浮かべることである。(例外的に自分が体験したことがない想像もあるだろう)
♡言葉は人間の文化そのものだろうが想像がなければ言葉は機能しないだろう。甘いという言葉で甘さを想像する。ただ想像がない言葉というのもあるかもしれない。また言葉自体が言葉の想像である。


<創造性とは何か>


❀花を眺めているとしようーこれが感性である
❀花を思い浮かべるとしようーこれが想像力である
❀夜花の夢を見ているとしようー夢は主に視覚の想像の構成力でこの構成力が創造力である


素材の構成力が創造力であり、素材は視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚、の記憶すなわち想像であり及び言葉である。これらは普段意識されないのだから、無意識にあるのだが、そのまま無意識に隠されているとは考えられず、あるいは無意識の上層にはそのままあるとしても、その下層には何か凄い仕組みがあるのだろうと思われる。特に言葉はそうであろうと思われる。創造力というのはこれに含まれていると考えられる。わたしはそれが精神の因果として現象していると思われ、さらにそれがただ現象しているだけの無秩序ではあり得ないのだからそれをコントロールしているものがあると思われるのである。私見では精神の因果の創造力は誰もが持っている凄いものなのだが、このコントロールするものがうまく働かなければその創造性が意識に上ってこず埋もれたままなのだろうと思われる。


【人類の文化は、学問、芸術、宗教に分類される】ーこの命題は分類原理によるー


㊀学問の創造性について


学問の素材は概念の言葉である。夢というのはその素材が主に視覚、映像の記憶だが、素材が言葉であって求めるものが真理であるとき、あるきっかけによってその夢の構成力と同じものが様々な真なる命題を作り出すようになる。これが学問の創造力である。本質としてということで、もちろん他の想像とも関係しているはずである。


あるきっかけとは消極的より積極的な思考、自分で考えるということだろうと思われる。
貧弱であろうが、間違いであろうが、無駄であろうが自分で考える必要がある。
後は無意識の底にあるものが無意識を通して意識に「真理」を自然に表出させるだろうと思われる。
甲)つまり大筋でこういうことであろう。自我意識の流れがはっきりと意識されるのは文章でなければならないが、もちろん下層には言葉と言えない訳の分からない流れもあって、五感の記憶も交じっている。その文章は大方は偽なる命題、誤謬なのだが、正常であれば真偽の判断はつく。ところで積極的に正しいことを考える努力をすると、必ずではないとしても創造力が正しい命題を自ずから作り出すようになり、真理が意識に以前より多く登ってきて捉えやすくなる。


㊁芸術の創造性について


詳細を論ずることはできないが、芸術の素材は、文芸なら言葉であろうし、美術的ものなら視覚に関した想像であろうし、音楽ならば音に関した想像であろうし、料理ならどうなどとも考えることができる。これらは脳内のイメージ、想像であるが、芸術は形作ることが多いので具体的に素材が物質が必要ということがある。これらについては芸術家が専門家である。これらの創造性というのも夢の構成力と同じものである。つまり自分がー自我がー創造するのではない。


今回注目したいのは、自分の体である。自分の体は宇宙の創作物であり芸術品である。人間が芸術を創作するとき、自分の体がなければ創作できないだろう。また感性も想像性も創造性も自分の中にある。


これからすれば人間の行為のすべてが芸術活動であるとも考えられるのである。例えば、スポーツ、労働、医療、政治、遊び、会話、社交、性交、などなどである。これらの創造性が発揮されるのはそれらの行為以外にないが、指摘したいのは創造性というのは経験だけではないということである。積極的な行為から経験以上のものが生まれる。だから創造性なのだがこれもおそらく夢の構成力と同じものである。


凸自分の体は宇宙の芸術品であるが、自分の芸術の直接の素材でもある


凹観念論哲学では、体は物質ではなく触覚である。よって行為の記憶は触覚の記憶であり触覚の想像である。よって芸術の創造性はまずは自分の体であり、その想像は触覚の想像であり、その創造性は触覚の創造性であることになる。つまり職人の名人芸は触覚の創造性であるということになる。ただこれは主題ではないので無視してかまわない。


㊂宗教の創造性について


宗教に創造性はない。想像もない。あるのは感性だけである。感性とは自分の体を含む宇宙の現在だけの鑑賞能力であり(現在でなければ記憶である)、概念とかかわらない純粋な感性である。霊性とも宇宙意識とも言われる。感性にとって精神は妨げなのでそれを得ようとするのが宗教活動である。精神の無化であり主観が認識されることである。教理、教条は言葉なので宗教ではなく宗教哲学や宗教芸術の創造も宗教ではない。統一された自己に、元に戻るという活動なので、想像でも創造でもあり得ない。
乙)宗教というのは客観的にみても主観のことであろう。


付記1)自分という現象は一つの統一現象であるから、すべてが関係しているであろうことは言うまでもない。また上記は複雑なことなので、間違いは当然あるので大筋、概略、総合的を主張しているのである。一人の心理現象は小さな宇宙なのであるから。また言うまでもないが言葉の重要性はいくら強調しても足りるということはない。
丙)しかし重要なことであるが、言葉は虚構であり実在とは関係していない。言葉が実在に影響を与えることはない。言葉が影響を与えるのは心から心へのみである。


付記2)以上は科学的に証明されていない命題を多く含むのだから形而上学といってよい。科学とは個々の事象が分析されてから総合される。形而上学は総合的なものが突然提示されるが、科学的に証明されていない。今回は省いたが形而上学の命題がその下位の外に証明されている科学によって、科学的に帰納的に真とされることが有りえるはずである。またいろいろな知性の謎も上記の創造力の神秘に秘められているはずである。


付記3)わたしは心理学の知識はさほどないので、いろいろな心理現象については知らないが、それらは今回の想像と創造および感性についての本質ではないだろう。たとえば幻覚、錯覚などの偽想像や、、妄想、誤謬などの偽創造であるが、これはおそらく感情と関係しているのではないかと思う。想像の中には、感性の記憶の他に感情の記憶もあり、これが結構人に強い影響を与えている。また個の無意識には個の体験以外の体験が感情として残っていると考えられるからである。感情は精神の自我の全体作用であり負としては恐怖、孤独、劣等感、などの自我の全体作用である。宗教によって自我が無化されれば感情も無化、純化されるのだろう。ここに純な形で感性ーこれが実在であるー、想像力、創造力が現れてくると考えられる。