schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

戻るをクリック因果律の対象と数学の対象

因果律の対象というのは物質(表象、五識)である。物質の根拠律が因果律である。


数学の対象というのは時間と空間である。時間と空間の根拠律が数学である。数学は現在すごく複雑になっていて、論理的な学問に見えるのは概念が際限なくからんでいるからだろう。


五識は外的直観であり時間と空間は内的直観である。


因果は外的直観の無分別であり因果律というのは外的直観の分別意識である。時間と空間は内的直観の無分別であり数学というのは内的直観の分別である。


4つの根拠律の対象は因果律は物質(表象、識)、数学の対象は時間と空間で、これらはまったくの直観である。


対して概念は知性の本体、意志は動因の本体が対象で、直観ではなく、人間の分別を作り出す本体その存在そのもの(精神)である。


根拠律自体は学問の基礎なのだから概念でできているものである。


午後の緑茶 特殊相対性理論で物質や時間が伸びたり縮んだりする理由を観念論から考え           
      てみよう。観念論では、物質(表象)や時間と空間は自分の中にあるのだか
      極めて単純なはずである。物自体は認識できないので認識しようとすると
      そうなってしまうのだろう。たぶん。

酒を4合飲んで4時間坐禅をした。

だんだん深まっていった。酔いが。


頂点に達した。


絶頂が続く。酩酊。


絶頂が終わり始める。


だんだん覚めていく。


完全に覚醒した。


酒を飲んで坐禅するときは部屋を暖かくすべきだ。


試しに悟りをニユーロンのつながりで説明してみる

客観的な真理が無味乾燥なのは、それが自分の実在と無関係だからである。


それが技術に生まれ変わって自分を助けることが、根本的な幸せにならないことは、現在の世界が証明している。


でも客観的な真理が、主観的な技術について気づかせてくれるということはあり得る。


主観的な技術とは坐禅である。


ニューロンのつながりとでも呼べるものが、電子の働きというのは外から見たのであるから、精神的な実在としては何かもっと別な自分の中の働きだろうし、これを唯識的に種子としてみる。


記憶は阿頼耶識の中の種子の何等かの繋がりとか組み合わせでできている。(世界も種子でできているのかもしれない)


その中には生物としての記憶、人類としての記憶、先祖の記憶、自分の過去の記憶が、末那識として残っており、意識に現れてくる。それは五識の記憶、意識の記憶の言葉などである。


種子のその組み合わせやつながりは無限個であるが、記憶というのは限定されているもので、限定されているがゆえにそれはカルマである。物質の記憶(進化)が輪廻かもしれない。


坐禅というのはこの記憶を元に戻すのである。というのは、限定されたその繋がりが、全体の繋がりに戻るのである。その全体が世界と言っても良い。なぜかは知らないが人間にはその能力がある。元に戻っても記憶は残るが、平らかにされた全体の中に残る。


平らかにされた全体というのが涅槃であって、あえて個人の考えを言ってしまえば、悟りというのは、その涅槃を残った記憶が意識するのである。涅槃は意識されなければならない。死ぬまで。


この意識が直観的真理であり、その意思が直観的意志であるかもしれない。



一人暮らしの夏の後悔

一人暮らしをして一年すぎた。素晴らしい。自由だ。楽しい。


ただこの夏、買った野菜の半分を腐らせた。


金銭の得失はどうでもいいが、腐った野菜からこばえが湧いて


いつも二十のしみが楽しそうに飛んでいた。


そこでカット野菜の導入に踏み切った。ほうれん草は冷凍だ。もちろん日本産。


洗わなくていいので楽だ。







道徳の根拠となり得る直観的意志

無というのは主観と客観が一致したときに起こる。そのとき主観も客観もなくなる。というよりも逆で主観も客観もなくなったときに主観と客観が一致するのである。これは実在論的な見地である。実際は主観はもともと無なのである。なぜなら客観は主観の表象だからである。これが観念論である。


前回に無の知性における直観的真理について述べた。


意志とは人間にとっては多くの場合やはり概念的なものだと思われる。だから意思という言葉があるのだろう。


意思というのは、人間の行為を規定していて、動物的意志の上層にあるものである。


無の知性に直観的真理というものがあったように、無の意思に直観的意思というものが考えられる。


行為と単なる知性は違うものである。だから定言命法というものはあり得ない。あるいは因果によって変わるものであ。行為は因果律に属するもので知性とは無関係だからである。(因果に属するのだから存在の意味<存在論的>ではなく存在そのもののこと<存在的>である。存在の意味も因果においてそのつど変わる)


この直観的意思(意志)というものが道徳の根拠と考えられる。