schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

悟りの真理

悟りは言葉にできるか?できる。それが悟りの真理である。


しかし、この真理とは命題が真という意味である。(直観をそのまま表す芸術的表現もある)


真理には別に直観の真理というのがある。いわゆる五感の世界の真理である。宇宙の真理とか言われるのは普通これである。


人類が使っている真理はこの二種類があって、この二つ以外にはない。


この直観の真理を掴むのは坐禅とか瞑想的なものしかないのであって、言葉の真理をいくら勉強しても得られないことは明らかであろう。


この二つは別物である。別であるが繋がっている。言葉の悟りとは一瞬の悟りの閃きである。


直観の真理を妨げるているのが自我であり、感情であり、煩悩であり(これらはみな同じものなのだが)それらは人間にとっては、意識と末那識でありその頂点にあるのが言葉なのだから、これが人生の大いなる矛盾と不可解として映っている。



真理とは何か?

実在が観念か物質かの研究材料に一番適しているのが自分の体であるからぜひ試してほしい。特に身識の体感である。痛みにはじつに様々なものがある。


この世界と煩悩と悟りをまとめて論じたものが唯識である。ではそれは真理なのだろうか?


真理とは命題が真ということである。学問とは人間の雑多な思考の中から、真なる命題の連なり(連合)を選びとったその集まり(集合)のことをいう。学問でない真理というのはその真なる命題に連なりがないものをいうのである。


科学とはその命題の根拠を真か偽かの判断をする場合に経験的なものを詳しく観察することをいうのである。


科学的な真理とは何か?を追及した結果に生まれた書物がカントの「純粋知性批判」であり、学問の真理とは何か?を追及した結果生まれた書物がショーペンハウアーの「根拠律の四つの根について」である。

唯識の実験の対象は直接の客観

唯識というのは世界はただわたしの識(表象)であり、それは眼識、耳識、舌識、鼻識、身識、意識、末那識、阿頼耶識でできており、それらは繋がっていて種子の何等か繋がりとか組み合わせでできているというのかどうかは分からないが、今はそうしておく。


というのはわたしは唯識を論じようとしているのではなく、完全な観念論の学について論じようとているのだから。


目に見える世界は眼識であり、耳に聞こえる世界は耳識であり、匂いの世界は鼻識であり、味の世界は舌識で、自分の体感とか触覚の世界は身識であり、言語、夢、感情、欲望、本能、意識と5識の記憶とかが、意識、末那識、阿頼耶識の世界でこれらは皆繋がっており種子でできている。ということにしておく。(夢というのはおもに眼識の記憶である。記憶だから末那識とつながっている)


ここで身識のうち自分の体感についてみてみよう。たとえば首の凝りである。首の凝りは実在論の科学では、神経がどうのこうのとなるが、観念論の科学では首の凝りは種子の何等かの組み合わせとか繋がりでできているのである。感覚が何でできているかが問題となるのである。


実在論の科学は客観的、観念論的学は主観的といえよう。

唯識の観察、唯識の実験

唯識の実験は、「実在は観念か?物質か?」を確かめるものである。


世界は、原子でできているか?種子でできているかということである。


宇宙が実在論的であれば、宇宙は物質(原子)できており、観念論的であれば観念的なもの(種子)でできているだろう。


これは、実在論的科学では宇宙は物質、原子でできているというのは正しいし、観念論的科学では宇宙は観念であって種子のようなものでできているというのが正しいのだが、さて、本当の実在はどちらか?を確かめるものである。







唯識と表象としての世界の微妙な違い

それは外界を否定しているかどうかであるが、ショーペンハウアーは外界を否定するのはばかばかしいと明言しているし、唯識では外界を否定している。


わたしはここに疑問を持ったので摂大乗論、唯識三十、二十を読んでみた。が外界が無いと言っている訳ではないので安心した。要するに認識されたものは外界ではないと言っているのだ。


ここで思い浮かぶののは、カントの「物自体は認識できない」という言葉である。<実在、物自体、涅槃、真如、何か関係あるだろうか?>


この違いはショーペンハウアーは実在論を脱し切れていないが、唯識は完全な観念論なのだ。ショーペンハウアーは世界が原子でできていることを否定しないだろうが、唯識を発展させた哲学では否定するだろう。


世界は種子でできているのだ。