schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

精神改造の坐禅

仙台の坐禅道場でまもなく四日間の接心会が始まる。普通接心会は七日間みっちりやるのでその半分なのだから気は楽だ。


そして今日は坐禅会とお茶の稽古だったが稽古はなしで坐禅を30分余計にやった。


精神というのはその本質は感情だが、感情が人間にとっては意思が知性となって表面に現れる。だから精神とは知性と思ってしまうのだがそれは全くの間違いで実は因果なのである。


ここが面白いのだが精神は因果が知性となって現れるのである。そして因果と知性の矛盾が人間のあらゆる精神の悩みや苦しみを作り出している。


人間の悩みや苦しみには他に肉体の悩み、苦しみがあるが精神の苦しみと肉体の二種の因果の苦しみはまったく類型が違うものである。


人間が知性の意思で因果を変えるのは非常に困難なことで、だから平和の実現とか会社の経営や人の管理、政治の政策、物が片付かない、うまく行かない人間関係、成就しない恋、恋愛や結婚の継続、教育などのこういう因果を人間の意思や知性で変えていくことは容易なことではないのだ。


だから理想は簡単なのだが実現は難しいのだ。これが人間の全ての精神の悩みというのは分かるでしょう。これが理想と現実は違うということで、また違って当たり前なのだ。世界が理想と一致することは永遠にないでしょう。これを仏教では因果の世界は差別の世界というのである。


自分の精神も因果だから自分を変えるのも難しいのです。でも世界を変えるのは間接でしかない意思だから極めて難しいのだが、自分の精神を変えるのは直接な主観なので世界を変えるほど難しくはありません。実現すればこれを仏教では平等の世界というのである。自分の精神が平等でないのに世界の平等を語るのは悪魔が愛を語るようなもので言葉だけのインチキですからまあ無責任なのです。理想を語って現実を嘆くというのはそのこと自体が出鱈目で人間的に幼稚なのは、そもそもあなた自身があなたの理想なのですかということですよ。<自分の容姿、性格、健康、生活などなど>


この精神を変えていく主観の発動が坐禅でありわたしがやっている坐禅は精神改造の坐禅です。さて今日はもう90分やろう。