schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

キリスト教の感想

わたしは20代から仏教に興味があったがあるとき行き詰まりを感じてキリスト教会に1年くらい通ったことがある。


組織的で比較的大きなプロテスタントのペンテコスト派の一つである。見たことはないが異言が特徴的な派と言われている。


ここでのキリスト教の牧師や宣教師の感想なのだが、こころが貧しい生活を実践している
ことに感心した。宗教者として本物であると思った。たとえば仲間で食べる昼食がパン一枚にマーガリンをつけてコーヒーを飲んだだけで布教にでていくのだ。旨い食事をすることもあるのだろうが、このことから生活が華美でないことは伺われた。そして良い人達であった。


反面がっくりしたのが知のお粗末さだった。救いとは具体的にどんなことなのかと聞いても、信仰告白をしたのだからもう救われているのだということを繰り返すだけだ。救いがこれ以上出ない。信仰しているのだから救われているのですという感じ。天国に生まれるのだからというのをかなり含んでいるのだろう。わたしはキリスト教で心理的に人間が救われるというのがどのようなことなのか知りたかったのだ。もっと深い研究もされているのだろうが、おそらく普通の牧師のレベルはこんなものだろうと思う。どんな仏教よりも知的レベルが低い。これは仏教の知が哲学的であるのに対してキリスト教の知が神学だからだろう。教条的なのだ。


異端と言われるところでモルモン教会やエホバの証人などの教会も同じような印象を受けるが、これらはアメリカの信仰なので清教徒の影響を受けているのかもしれない。


西洋哲学が極めて知的なのは科学が生まれたことから分かるが、西洋哲学で神がと出てくるとほとんどが出鱈目になってしまうとわたしは思っている。神が自分の外にいる場合だが。


またこれから書いてみたいと思うがキリスト教というのは極一部に深い宗教体験をした者はいるが、神の許しが明確化されたことによってエゴ的人間性の主張(ヒューマニズムと言っていいのか)やそれに類する思想とかの発展に寄与したということはあっても、感性において古代人の自然宗教にかなり劣っており自然宗教を駆逐していったのだから人類を劣化させたのではないかとも思っている。


こういうことからキリスト教というのはユダヤ教やイスラム教とも違い、またプロテスタントとカトリックは文化的に殆ど同じだがギリシャ正教はまた違うのかもしれないが、
キリスト教徒がおとなしくたましいの救済をしているだけなら良い信仰なのだが、ほかの
ことに手を出すとろくなことにならなかったのは知的な出鱈目の他に、最も悲劇だったのが人間の意思において自然宗教と敵対していったことなのではないかと思うのだ。