schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

分類について

分類は知性の本質に根差しておりおそらく知性というのはそれだけのものかもしれない。
それは類似と相違の判断である。


たとえば主語ついての述語が正しい真理といわれるものも存在者と概念との類似と相違の判断、または概念同志の類似と相違の判断で説明できるような気がする。


学問に二種あることは前に述べたが、観念論の学問では主観が無であって他はすべて客観
なのだから、これは実在論から見ると主観と客観が一致しているということなのだが、主観は無なのだから存在すると思われるのは客観だけということになる。


だからこの客観は主観と言っても構わず何しろ一つしかないのだから存在とか名無しであっても構わない訳である。


この観念論の学問にとって存在の分類はどうなるのか?これがわたしの興味なのだが、主観、直観(世界)、精神を分類の最高の族概念(類の上)としか考えることができないのである。


主観は無だがこれが無ければ世界は存在しないのだからもっとも重要である。これは本来の自己と呼ばれるものである。(どうでもいいことだがこれは内なる神と同じである)


対して主観に対する客観は、直観(世界、宇宙)と精神に完全に分かれており一緒にすることは不可能である。


ここで世界に存在するわたしとあの人は存在として同一(一心同体ともいう)なのである。


そこにはわたしとあの人の関係性として存在する、愛情、友情、言葉、おもいやり、ふれあい、などは、わたしとあの人の肉体の存在(二人の肉体は存在として同一でありそれはそれぞれの五つの感覚である)の下位概念となるのである。


これが世界の真理である。