schopenhauerのブログ

唯識とショーペンハウアーの研究

実在が感性で物質は概念ということについて

<食べ物>


食べ物は目にとってはただ視覚であり、作るときはだだ触覚と聴覚である。おいしそうな匂いは臭覚であり食べるときは味覚と触覚との調和である。腹が減るのと満たされるのはのは触覚である。満足感は感情だろう。


<自分の体>


鏡に映る自分はただ視覚である。自分の体を直接眺めるときも自分を外から眺めているのである。そのとき自分の顔は見えない。要するに自分の目は自分を外から眺めているのである。自分を認識する味覚、臭覚、聴覚また手の触覚もそうである。自分を直接認識するのは触覚(体感やこりや痛み痒みなど)のみである。自分の体はただ自分の触覚である。


<その他の物質>


宇宙のすべてが上記と同じと考えられる。離れたものは触覚では認識できない。


<では物質とは何か>


物質が五感で物質と認識されることはあり得ない。なぜなら感覚は物質ではないのだから。であるから物質というのは頭の中で考えられたもの概念ということになろう。概念であるなら物質というのは実在ではないことになろう。これは物質が存在しないということではない。物質は存在するだろうが実在としては直接認識できないということである。だから自然科学の研究には終わりがないのだろう。


これは物質という言葉が概念ということではない。物質自体が概念ということである。明快に理解できることではないが、この概念は物質としての動物が生きていくために仕掛けられた素朴実在的な指針となる動物的概念ではないかと思う。であるからこの概念はおそらくどんな動物も持っているのであろう。だから人間を含めた動物は世界が物質であることを疑えないし騙されながらも生活するだけならうまく生きているのである。種族保存のための性欲、自己保存のための飢えや痛みや死の恐怖よりももっと精神的な概念の仕掛けである。


<これと自我との関係>


五感で認識されたとたん物質(のような)と分別されるのだから概念としか考えられないのでありまた昆虫であっても自他の区別がある。自我がある。物質という認識はそこに何かあるとは認識されるのであるから自我とも関係があるだろう。


<これと人類の精神史>


個人の精神も人類の精神史の反映で人類の精神史の現在はこれまでの因果の蓄積である。おそらく少しの良いことと多くの悪いことがこれと関係しているだろう。人類の精神史はただの偶然であり改善も悪化も滅びもただ因果である。そして現代は精神史の混乱の時代なのだろう。